南風の頃に

田舎町から札幌へとやって来た高校生の物語。

第1部 3 沼田恭一郎

 

 陸上部の練習は、学校の雰囲気と同じで、各自が自由に振る舞っているようにしか見えない。グラウンドに集まって遊んでいる集団にしか思えなかった。チームとしてのまとまりや一体感が重視される野球部と、個人のレースを基本とする陸上との違いなのだろうか。広いグラウンドのあちこちで陸上部の先輩たちがトレーニングに励んでいるようなのだが、僕にはそれぞれが何をやっているのかわからなかった。まじめに全力でやっていることなのか、それすらもわからなかった。いや、いま目の前を3人1組で走っていった3年生達が全力で走っているとは思えない。

「手を抜くんじゃねー。」

野球部ならばそんな声が飛んできただろうと思いながら、しばらくただグラウンドを眺めていた。

 

「君の脚の筋肉は長いからジャンプ系に向いていると思うぞ」

陸上部顧問の沼田先生がそう話しかけてきたのは入部3日目のことだ。僕の走りを見たのは初めてのはずなのだが、そう言いきった。僕はやり投げでもしてみようと思って陸上部に入った。坊主頭の注目度は高く、周囲の生徒達からは坊主頭イコール野球部と思われていたのだろう。入学式から3日間、野球部の強烈な勧誘をかわし続けてきた。

槍投げをやってみようかと思っているんですが」

「槍かい? ほー、珍しいな。やったことあるの?」

「いえ、野球部でしたから」

「野球、ね」

左右に目を走らせ、沼田先生が何かを考えている顔をした。

「ポジションは?」

「ピッチャーのこともありましたが、センターが多かったです」

「背も高いし、肩幅広いしな。野球やってたのか……」

沼田先生は、なにかを思い出そうとしているようだったが、途中であきらめたような表情になった。

「うーん、まー、しばらくは短距離グループで一緒にやってみな。でも、君の脚の筋肉は長いからきっとジャンプ系に向いてるぞ……」

 

小学校3年の時、継母が弟を生んだ。家族の中心が僕から弟に移った。それからというもの、放課後と休日は少年野球に熱中することでお互いの幸せを確保してきた。体が大きく上半身の力も強かった僕はピッチャーをさせられることが多かった。

 

速い球を投げて打ち取った時の快感はあった。でもどうしてもこのポジションは好きになれなかった。4年生5年生と学年が上がるにつれて、打てない球を投げられるようになればなるほど、相手バッターや相手のベンチは、打つこと以外の小細工を弄してきた。3人連続でバント攻撃されたことがあった。インコースのボールにわざとあたりに行くように指示する監督もいた。投球モーションに入る直前にわざとタイムをかけてくるチームもあった。ランナーが出てセットポジションになると牽制のモーションにクレームをつけてくる監督もいた。

 

野球は楽しむためにやっている。この時間は僕にとって唯一の楽しめる時間なのだ。他の余計なことから逃れ、楽しい時間を過ごすためだけに野球をしていた。野球をしている何時間かは他のことはなにも考えなくてもいい。夢中になれる。楽しむための時間だった。

 

ピッチャーは嫌だと思うことが多くなった。他のポジションにしてもらおうと監督に申し出ても、簡単には認めてくれない。僕が投げると相手は打てないのだから当然なのだが……。

「肘が痛いんです」と6年生になった時、少年野球の監督に申し出た。野球肘というやつで困っている仲間は何人かいた。

 

目を丸くしてしばらく何も言えなくなった監督は「病院で見てもらえ」と小さな声で言った。病院なんかに行く必要はなかった。肘なんか痛くはなかった。言われたことを無視して、当時はもう引退して父親に社長業を譲っていた祖父から「野球肘らしい」ことを伝えてもらった。監督は、網元だった祖父の興した水産加工会社で働いていた。

 

中学に入って外野手を希望した。60人以上の部員がいるので、試合に出られる選手は限られていたが、僕は1年生の時から使ってもらうことが多かった。中学の監督もピッチャーにさせようとしていたが、肘が治らないことを理由に外野手に固執した。ピッチャーには魅力を感じていない。でも、チームの勝利のために個人の希望が後回しになるのは、団体競技の原則だというのが監督たちの話からは伝わってきた。

 

僕はただ、自分の時間が欲しかった。誰の目を気にすることもなく、自分が思ったことをそのままできる保証された時間が欲しかった。家庭の中にはそれはなかった。学校生活の中にはもちろんなく、部活動の時間だけでも自分の楽しめる時間にしたかった。

 

外野の守備位置からバッターの打ち返すボールに集中して、自分の体を反応させることに楽しさを感じるようになっていった。ピッチャーの投じる球種とコースに合わせて、打球の飛んでくるコースも予測できるようになった。ピッチャーの投じる1球1球に全神経を集中させることが楽しくなった。そしてなによりも、2塁や3塁にいる走者をバックホームでアウトにすることに1番の喜びを感じていた。本当は肘なんか痛くはなかったのだ。

 

高校では、個人の力だけで結果を出せる陸上競技に自分の時間を使おうと考えていた。陸上であっても、監督の意思で種目を決定されてしまうのであれば、野球をやめた意味がない。

 

5月の記録会は連休の中日に円山競技場で行われた。この陸上競技場は冬期間にはスケート場としても使われていたのだという。地下鉄を降りると大きな松の木が立ち並ぶ森のような公園の入り口が見える。見上げるほどの高さに立ち並ぶ樹々の間を進み、坂を登ると北海道神宮に行き着く。更に上へと進むと、札幌ドームが出来るまではプロ野球の巨人戦が行われていた円山球場へと続いている。

 

陸上競技場は野球場の隣に位置し、更にその右隣にはテニスコートが設置されていた。札幌に来てまだひと月あまりの僕は、同じ日にテニスの大会があるという武部と一緒に路面電車と地下鉄を乗り継いで行くことになった。マネージャーの山口先輩に細かく教えてもらっていたので、ほかの1年生部員と行くはずになっていたのだが、武部が強引に決めてしまったのだ。

 

僕の下宿に武部がやって来たのは、まだ薄暗ささえ感じる朝の5時をちょっと過ぎたころだった。この時間に動いているバスも電車もあるはずなく、武部の住む南区から歩いて来ることなども考えられない。父親か母親に送ってもらったに違いない。まだ、布団の中にいた僕を丹野の婆さんが困った顔をして起こしに来た。

 

丹野の婆さんは70歳をとうに過ぎている。二人の娘さんの嫁ぎ先はともに東京らしい。息子さんはアイスホッケーの選手をしていたことがあり、今は苫小牧にいるのだという。十年も前に亡くなったご主人は会社の役員をしていたらしく、この家もそれにふさわしい立派な作りをしていたし、部屋数も多かった。南が丘高校に近いために、今までも何人かの先輩達がこの家に下宿していたのだという。その中の1人は大学助教授だし、もう1人は北海道議会に籍を置いていると、何度も何度も聞かされた。そして、ご主人も南が丘高校の卒業生だった。

 

岩内で水産加工会社を興し、取引先が多くなるたびに人脈を広げていった祖父が、南が丘高校の関係者から紹介されて、僕はこの下宿に住むことになった。父親にアパートでの1人暮らしを強く主張し、父もそれで良いと思ったらしいのだが、社長業を引き継いだとはいえ、祖父の言うことには逆らえない父だった。

 

「いいですかぁ野田さん。札幌の名門高校に入学させてくださったご両親にぃ感謝するんですよぉ。きっとあなたの知らないところでぇ大変な苦労をなさっていらっしゃるのよぉ。」

丹野の婆さんの口癖だった。

「岩内のような田舎町から、わざわざ札幌のこの高校に入れるには大変な努力が必要だったんでしょう。無理したんでしょうきっと。」と、どうしてもそんな意味に聞こえてしまう。

「いやあ、岩内も結構文化レベルの高いところで、函館ラサールだとか札幌の公立とか中高一貫の私立とかずいぶん来てるんですよ。有島武郎の文学館だとか荒井記念館だとか中島みゆきが小学校までいたことがあったり、大鵬だって僕の小学校の先輩なんですよ。」なんて言ってみても、丹野の婆さんには通じないのはわかっていた。

 

札幌は北海道の東京で、「地方の町」からやってくる人はみんな、ここで一旗揚げてやろうと一念発起してやって来る田舎者たちだ、と思っているような話しぶりなのだ。そう思われたところで全くかまわないけれど、「岩内ってけっこういい町なんですよ」なんて、さらっと言うだけにとどめることにしている。どう言ってみたところで「みやこ」で生きてきた丹野の婆さんには通じるはずがない。

 

丹野の婆さんは京都の出身で、公家の血を引いているらしいという話を武部から聞いた。

武部はもうなんどもこの下宿に顔を出していて、特技の社交術、いや、得意のおしゃべりで丹野の婆さんにもすっかり気に入られていたため、こんな非常識な時間の訪問にもかかわらず、すんなりと通されて僕の部屋へとやって来たのだ。

 

「お婆ちゃんいつもすいません、こいつは身体ばっかりでかくても、ほんとにまだ子どもで、なんにも自分のことできないやつでしょう。もうほんとに、しっかりできるように強く言っておきますから。じゃあ、後でまた京都のお話聞かせてください。どーもー」

「なんなんだよおまえは、僕の親か。……んとに。こんな早くから。時計持ってないのか」

「だってお前、記念すべき初陣だぞ。人に後れを取ってはならじ。先んずれば人を制すって、この前古典の時間に習ったばっかりだろ」

「いいか、よく聞け。おまえな、ちょっと盛り上がりすぎ。緊張してるのか? ああ、中学ん時部活やってなかったんだ……、初めてか。」

運動は苦手ではないらしいが、どうもこいつが運動している姿は想像しにくかった。

 

「早すぎたか?」

「競技開始は9時。6時に起きて7時に出発すれば8時前には着くだろう。それからゆっくり時間をかけてアップして、徐々に気持ちを高めていけばいいんだ。初めっから入れ込んでたらさ、ゲートに入る前に落馬してしまう競走馬みたいになっちまう。テニス部で時間の打ち合わせとか待ち合わせとかしてないのか?」

「してたみたいだけど、山口さんみたいな素敵なマネージャーいないしさ、僕はお前と行きたかったんだ。」

「なんでだよ、違う部活なのに、気持ち悪いだろ。」

「いいじゃんか。お前といると安心感があるんだよ。いいから、早く起きろ。」

「もう、今日はだめかもなー」

「お前、朝は弱いんだな。」

「うっせーよ」

「わかった、わかった。じゃあ、支度ができるまで丹野の婆さんと仲良くしてくるから」

身軽な動きで部屋から出て行く武部の背中を見ながら、祖父の言葉をまた思いだしていた。

 

「……僕も、お前の父親も、ここの商業高校しか出てないから、お前は我が家の自慢だ。でもよ、頭のいい優秀な学校に入ったことが大事なんじゃない。そこに通ってくる選ばれた生徒たちと一緒に生活できることが1番大事で、1番価値のあることなんだぞ。高校の3年間は、お前には大事な大事な時間になるはずだ。後から振り返ってみたらな、きっとそう思うはずだ。何が大事かを言葉にするのは難しいけどな。良い大学に入るかどうかなんてことはどうでもいい。『本物』を見ることだ。いい仲間を作れ。その時その時で『今』をどうするかを全力で考えて、それに向かって全力を出せ。中途半端はだめだ。それも後で絶対に後悔するからな。そしてな、本物の良い仲間が必要だ。今まで、お前の周りにはいい仲間がいなかったから……。」

 

中学の3年間、祖父にはずいぶんと助けてもらった。小学校の6年間を過ごした仲間たちとは違い、他の小学校からきている同級生たちには、僕はずいぶんと異質な生徒だったのかもしれない。学校で何か問題があるたびに父親は担任とぶつかるばかりで、相手を罵倒し、学校の対応にクレームをつけてきた。それは明らかに父親自身の手抜きや、見栄から来ることが多かったのを僕は知っていたので、父が学校に来ることを極端に嫌った。何度も祖父に学校への対応を頼むことになり、祖父はいつも僕をかばって長い時間かけて学校とも相手の家庭とも丁寧に対応してくれた。

 

「……金のことなんかどうにでもしてやる。いいか忘れんなよ。お前は、ここを出て行くわけじゃない。もちろん追い出されていくわけでもない。お前の生き方を決めるために札幌に行くんだ。お前は野田の家の長男だ。けども、この会社を継ぐ必要なんかねえぞ。僕の代で、昔網元だったのを活かすのに水産加工の会社組織にした。その時から、野田の家は、家の格式や力じゃなくって、この町の1つの組織になったんだ。お前の父親はそのことをまだ分かってないようだ……。お前は家を継ぐなんてことは考えなくてもいい。おまえが僕の孫だということはどこにいたって変わらないからな。いいか……。」

武部は祖父の言う「本物のいい仲間」なのだろうか。

 

やっとのことで長い冬から解放された北の街を祝福してくれているような1日だった。道路を挟んで向かいにある円山動物園は、開園前の時間なのに家族連れの車が次々とやって来ていた。桜はまだ5分咲きにも満たない。それでも、北海道神宮の境内付近にはこれから花見客が大勢繰り出してくるに違いない。野球場では社会人野球の大会が行われ、テニスコート陸上競技場は高校生の大会で、それぞれに独特のスタイルをした選手達が自分の活躍の場所を目指して歩いていた。

 

札幌市と近郊の高校生が参加する春期記録会は、学校対抗の種目は行われず、シーズン初めの大会として、個人の記録を確かめるために行われている。出場は1人2種目までと限定されているが、学校毎の出場人数制限がないため100m競争は男子だけで15組も行われる。残念ながらやり投げは実施種目には入っていなかった。100m走に出ることになった僕は、120人もの選手と競うことになった。もっとも、100mの正式な競技に出ることなど初めてで、自分の力だってどんなものなのかは知らない。それでもひそかに、自分の足の速さには自信があった。野球をやっていた6年間で盗塁を刺されたことは1度しかなかった。それも、明らかに審判の立ち位置が悪いために見誤った結果でしかないと思っていた。自分のタイミングでスタートできれば絶対に成功するとの自信を持っていた。

 

女子のレースが半分を終え、去年の新人戦の優勝者だという北翔高校の2年生が12秒4のタイムを出したという。気温の低さやシーズン初めという身体の出来具合から、良いタイムが出にくいこの時期の12秒4は、悪くない記録なのだという。追い風がかなり後押ししているらしい。南が丘の1年生から1人だけ出場した山野紗希は12秒9で走り、2年生や3年生よりも良いタイムを出した。

 

 並んでスタートを待っていた2年生の坪内航平が自慢するようにいった。

「あー、やっぱあの兄弟はさー、DNAレベルで運動神経発達してんだよなー。」

垂らした前髪の奥から、小さいけれどもちょっとだけつり上がった鋭い目が覗いていた。

「えっ、兄弟って?」

「あー?! なに言ってんのおまえ、3年の山野憲輔さんだろ」

「兄弟なんすか?」

「おまえ、バカか。ったく。顔見たらそっくりだろう! きっと性格もな!」

「そう言われると、切れ長の鋭い目が、似てますね。」

「お前、うわさ通り、ホンットに周りのこと分かってないな。鈍いっていうかなんて言うか、足は速えくせによ。」

「すんません。田舎もんなんで。」

「なんでも田舎もんでごまかすなって。お前って、本当に、真面目なのか鈍いのか」

 

小柄な身体を利して足の回転で勝負する坪内航平は、野球でいうとセカンドやショートに多いタイプだ。こういうタイプは、バッティングも器用で「うまい」野球をする選手が多かった。そして、人1倍負けん気が強いという共通点も持っていた。だから常にちょっとした細かなことにもトコトンこだわってしまうことが多い。

得意のスタートダッシュと同様、坪内航平はしゃべりもやたらに速い。そのため僕は時々聞き取れないことがあって、それを理由にまたバカにされるのだ。坪内航平にとって、僕は絶好の「口撃」の対象だったようだ。  

 

野球部にいた頃、先輩が後輩をけなすのはいつものことだった。そんなことは当たり前で、僕はたいして気にもしなかったが、敬遠する部員たちは少なくなかった。実際、陸上部の1年生の中で坪内さんの評判は悪かった。露骨にそういう反応を示す1年生も少なからずいた。僕は去年までの先輩と似た雰囲気を持っている彼のことをそんなに嫌いではなかった。というよりも、かえって親近感のようなものを感じていた。それにしても、僕はもう少し周りのことを知る努力をしなければならないのかもしれない。誰かに教わるまで何も知らないままだったことがこれまでもたくさんあったのだ。

 

男子の部が始まり、3組目に山野憲輔さんが走り、11秒6の2着でゴールした。大柄なわりには小さな走りをしていた。上下動の少ない走りは外野手向きかもしれない。9組目の坪内航平さんは、得意のスタートで11秒5のタイムを出した。僕の1組前の11組では3年生の大迫さんが噂通り強く、スタート後、身体が起き上がってからの加速で他を大きく引き離し、余裕を持ってゴールに飛びこんだ。タイムは11秒2。今までの組では1番の記録だった。

 

ようやく僕の番になった。緊張感はさほど感じなかった。100mは望んでいた種目ではないのだ。チームの勝利を背負っているわけでもなく、2アウト満塁でもないのだから、自分だけのために走ればいいのだ。3レーンにスタブロをセットし、1度自分のタイミングでスタートしてみる。10メートルほどのダッシュの後スタート地点に戻った。ゴムの走路がずいぶんと柔らかく感じた。同じようにして戻ってきた7人と並び、スターターの合図を待った。

 

スターティングブロックの後ろに立つと、みんなはそれぞれいろいろなことをやっている。左隣の2レーンの選手はしきりに体をゆすっている。右隣の4レーンでは、その場でジャンプを繰り返している。目をつぶって静かに深呼吸を繰りかえす選手もいた。5レーンの大柄で筋肉質の選手は、スタートのリズムを作るためか腕を小刻みに振っている。そうやって独自の方法で集中力を高めているのだろう。視線の先にはゴール地点の白いテープ……。いや……テープはなかった。

 

1年に1回だけの運動会で、白い紙テープを最初に切りたくて頑張っていた小学校の頃。負けたくない、という気持は先頭でゴールのテープを切りたいという気持でもあった。だが、今、このスタート地点から見える目標のゴール地点にはなんにもない。ただ走路の両側に2本の白い杭が立っているだけだ。スタート前の選手たちがゴールを見据える緊張の場面のはずが、なんだかちょっと違った。目の奥や背中のあたりの力が抜けていくような気がした。陸上選手として記念すべき初の100mは、スタートを前にした今になって、ゴールにはテープなんかないという、そんな当たり前なことを初めて知ることになった。頭の中に空白ができてしまったような気がした。左右の選手たちは、みな緊張感たっぷりの顔をしている。

 

「オンニュアーマークス!」

赤い帽子をかぶったスターターが叫んだ。初めて聞く言葉だった。運動会ふうに言うと「位置について」ということらしい。

「シャアッ!」とそれに合わせて大きな声が外側のレーンから聞こえた。

「シアース!」と左隣の選手が気合いを入れた。

両足をすっと開いたスターターが、白く四角い台の上に真っ直ぐ立つ姿がかっこ良かった。でも次は何という言葉なのだろう。急に胸のあたりが忙しくなってきた。

 

右膝をついて、左足を前側のスターティングブロックにセットし、両手は白線の手前に親指と人差し指で支え、肩幅より少し広く平行に置いた。腰を小さく左右に振ってスターティングブロックに両足を更に押しつけた。1度顔を上げてゴール地点を見た。

「遠いな」

自分のレーンを示す2本の白線が遠近法の存在をはっきり主張して、9レーンの全てをまとめるようにゴール地点に集結していた。頭を下げ、息を整えた。そして軽くはき出した。「よーい!」じゃない次の言葉を待った。隣にある野球場から金属バットの打球音が聞こえてきた。耳に神経が集中しているのを感じた。

 

「セット!」

腰を高く上げると、指と肩とに体重がかかった。

「ドン!」という音ではない。「パン!」とも「バン!」とも「バシ!」とも聞こえる音を聞き飛び出した。引き上げられた右膝で1歩目が遠くに着地し、その右足にしっかり身体をのせて左足を出す。右、左、と進めるうちに脚にかかる力が軽くなってきた。スピードに乗ってきた。肘を曲げ、拳を握らないように意識を小指に集め、視線を遠くにおいてなにもないゴールに向かった。

 

無風状態のはずなのに、顔にぶつかる風の強さがほっぺたを揺すった。結構寒い。腕を大きく前後に振り、ひざは意識して高く上げ地面を上からたたきつけるようにしてゴムの走路を踏みつけた。タータントラックというゴム製の走路は、野球場の赤土とは違って跳ね返りが強い。つま先が埋まったり、滑って前足が抜けたりすることもない。

 

ゴールが近いことを示す横線にさしかかった時、右隣の選手が前にいることに気づいた。

今まで以上に腕を強く大きく振ろうとした。とたんに肩が揺れ、腕の力が首筋を硬くした。練習の時に沼田先生にいわれていたようにリズムよく走ろうとしていたのが急に崩れ、上半身の前傾が大きくなり、前につんのめりそうになった。打席でフルスイングした後に1塁に駆け出すときのように、全身の力を使ってなんとかこらえた。テープのないゴール付近を通過した時、1レーンの選手がわずかに自分の前にいるのが見えた。

 

3番目でのフィニッシュだった。第1コーナーの入り口まで走り、右に折れて場外への通路に向かった。

「負けた」

思わず空を仰ぐと、5月の陽射しがちょっとだけ目を痛めつけてくれた。なにも考えられないうちに終わってしまった。斜面に段差をつけて下へと続く隣のテニスコートから女の子達の歓声が聞こえてきた。武部はどうしているだろう。あいつも今日が人生初のテニスの試合なのだ。

 

 記録は11秒7だった。初めて正式な記録を手にしたものの、この1本の100mのために僕はここで1日を過ごしている。準決勝、決勝と進んでいかない限り、これで1日が終わってしまう。野球の試合は中学であれば7回まで行われ、時間にすれば2時間程の真剣勝負ができる。今日は11秒で終わってしまった。この短い時間の中で自分の楽しみだとか満足だとか、いったいどこでどんな瞬間に感じるものなのだろうか。自分の力だけが勝負の決め手になる個人競技を望んでいた僕の考えは、本当は自分自身の適性とは違っていたのだろうか。

 

センターの位置から、投球のコースに合わせて守備位置を変え、スイングの強さと打球音で飛球の位置を判断してスタートをきる。そんな野球をしていたときの方が、はるかに中身の濃い、極める中身のある時間だったのではなかったのか。相手投手の配給を読み、自分のポイントまで引きつけたボールをフルスイングできる野球の方が、遥かに満足感を得られる競技だったのではないのか。自分のいない競技場を他人が走っている姿を見ていても何も感じるものはなかった。

 

テントへ戻って、1人きりの昼食を摂った。野球部時代には1人で昼食を摂るなんてことは考えられないことだったが、それぞれが自分の出場種目の時間に合わせて食事をとるのが陸上競技の「あたりまえ」なのだ。午後からは大迫勇太先輩の100m決勝を応援するために全員でメインスタンドに移動した。風がすこし強くなり、ゴール地点に向かって左後方からの追い風に変わった。2時現在はプラス3.2メートル。

 

スターターのピストルから白煙が上がった。山口さんのストップウォッチが動き出した。大迫さんがとびだした。身体が起き上がりトップスピードに乗るまでは、とてもスムーズに動けていた。中間疾走でスムーズな動きを維持できれば記録に結びつくらしい。でも、何だか少し力みが見える。肩の辺りが盛り上がっている。膝下の動きが小さくなったように感じた時、隣のレーンにいた北翔高校の山崎昇が前に出た。大きな動きで股が高く上がっている。身体の大きさを活かしたダイナミックな走りで後半1気にスピードに乗ってきた。腕の振りが大きく、股の太さが印象的だ。この人はきっと200mも強いのだろう。

 

最前列にいた僕たちの目の前を走り抜けていった山崎昇に、大迫さんは勝てなかった。後半の動きが対照的だった。追い風参照記録だったが、山崎昇は10秒9のタイムを出した。大迫さんは11秒1。追い風は2.6m。ほんのちょっとのオーバーで公認記録にはならなかった。けれども10秒台の記録に山崎昇は手をたたいて喜んだ。大迫さんが札幌で負けるのは珍しいことなのだという。彼は第1コーナー付近に立ち止まり、天を仰ぐという言葉がまさにぴったりな動作で、係員に促されるまでしばらくの間腰に手をあてていた。長い前髪に風が容赦なく吹き付けていた。

 

連休明けの学校は賑やかだった。5月病なんていう言い古されたものとは縁遠いこの学級の生徒たちは、相変わらず雑多でにぎやかで脈絡のない会話に夢中だ。中でも特に、強風に舞い上げられたような会話の花びらをあちこちに散らしまくっていたのは、身振り手振りをふんだんに交えた武部の「テニス初体験記」であるかもしれない。

 

「僕のバックハンドは高校生離れしているって言われたよ。」

「それって、高校生のレベルに達してないってことじゃないの?」

ピアノが得意だと自己紹介していた小笠原美桜が言った。なんとかいうピアノコンクールで全国2位になったのだという。その演奏を聴く機会はまだないが、とげとげしく激しい演奏になるような気がした。

「ボレーを決めるための微妙な角度を会得したよ。」

「ダブルスの前衛でもサーブやレシーブがあるんでしょう?」

そう言った福島美幸は小さな身体ながらバレーボール部のセッターとして期待されている。

 

「武部君とテニスボールの組み合わせがどうしても結びつかないよねー!」

合唱部でソプラノパートだという星野玲那が、その大きな目から今にも涙が落ちてきそうなくらいに笑っている。武部に無理矢理連れて行かれた合唱部のホールコンサートでは、女の子がほとんどの中に武部を入れて7人ほどの男子部員が、あごを振り、目を大きく見開きながらバスのパートに苦戦していた。星野玲那たちソプラノパートの響きはなかなかで、笑顔が印象的な歌い方だった。彼女は小さな身体に似合わず、どこまでも突き抜けるような澄んだ声を響かせていた。そして、その場で、仕組まれていたように合唱部への入部を勧められた。僕はもちろん強い口調で断った。歌には自信がない。いくら兼部が認められていようともそんな時間があるわけがなかった。

 

「きっとさ、武部君って、ボール追うより口の方が多く動いてたんでしょ。」

誰もが武部のイメージとスポーツとをマッチさせられないでいるらしい。

 

武部はそんな冷やかしのすべてに丁寧に答えていた。長い前髪を風に吹かれながら、俯いている大迫勇也の姿が武部の笑顔に重なった。自分自身の走っている姿は浮かんでこなかった。たった11秒で終わってしまった初めての陸上の試合。それなりに初めてづくしの経験はしてきたが、こんなことを続けていけるのだろうか。何を目的に、どんな楽しみのために、毎日の練習に向かえばいいのだろうか。練習することそのものが楽しみであるのか。そういう人もいるのだろうし、そうなれるのならそれでもいい。だが、楽しみの存在場所はわからないまんまだった。

 

武部のような社交性は持ち合わせていない。ましてや、1回戦負けの試合結果を何回も、何人にも繰り返し話せるほどの忍耐力もない。むしろ、大迫勇太先輩の天を仰いでいた姿にあこがれた。たった1度だけでも、自分が敗れたということに大きな思い入れのある生活をしてきたに違いない。

――勝っても負けても、そのことに全身で喜びを表し、悔しさをにじませられる、そんななにか夢中になれるものを見つけたい。他人のことなどどうでも良くなるくらい、自分のことだけに入り込める何かを手に入れたい。家族も友人も世の中の出来事さえ、何も気にすることなく夢中になれる何かが欲しかった。

 

「ケンジー」という間延びした呼び方をするのは武部に決まっていた。

「足速いなー、お前!」

テニスの話ではないらしい。

「予選落ちだって」

「いやいやいやー、1年生だもん、あたりまえでしょ!」

「学年なんか関係ねーよ。おんなじ距離走ってんだから。」

「あらっ、負けたのが悔しいってか? なんかー、珍しくやる気なさそうだぞー!」

「たった11秒のために1日無駄に使うのが我慢できない。全然面白くなかった。お前とは逆だ」

「そうだよー、僕は1回戦負けだけどさー、やたら面白かった! 初めてのことばっかりで、本当はルールすら知らなくて、どっち側からサーブすればいいのかもわかんなかったんだ。いちいち教えられながらやったんだけどさ、面白かったよー!」

 

こいつはなんで僕の前ではテニスの武勇伝を語ろうとしないんだろう。

「ケンジ―……お前さ、なんで野球やんなかったの?」

「野球もたいした面白くなかったから」

「だってお前さー、少年野球からずっとやってたんだろう?」

「だから、もう飽きたんだ」

「僕さ、この前テニスの会場で、時田ってやつと仲良くなったんだよね。北龍高校の」

「時田、……時田一也か?」

「そう、一也。一緒に野球やってたって?」

「んで?」

「最後の試合のこと言ってた」

「……」

「お前がさ、最後に投げたって……」

 

 去年、中学最後の試合は全道大会出場をかけた地区の決勝戦だった。互いに2点ずつとって7回を終わった。延長戦は促進ルールが適用され、無死満塁から攻撃が開始される。8回表、先攻の我が校がスクイズと外野フライで2点を取った。その裏「2点差があるからスクイズはない」との監督の読みで、スクイズ対策の前進守備を取らない作戦の裏をかかれ、1塁側にセーフティースクイズを決められた。しかも、それが内野安打になり満塁のまま1点差に迫られた。次の打者には前進守備にしたところ、バントしたはずの打球がハーフライナーとなって2塁手の頭を越え同点になった。1点取られると終わりの無死満塁となった。

 

もうあとはない。1人で投げ続けてきたピッチャーは、もう気持ちも体力も限界なことが誰の目にも明らかだった。もう1人のピッチャーは2年生で安定した投球をするが、球威がない。この場面では使えない。監督の大谷先生はセンターの僕をマウンドに上げた。中学に入って何試合か練習試合で登板したことがあるだけで、ピッチャーとしての練習はしていなかった。それでもセンターからのバックホームで肩の強さは全員の知るところだった。今までも何度もピッチャーを薦められていた。無死満塁。1点取られればそれで終わってしまうこの場面では、力で押さえてしまう以外ない状況だった。

 

 8球の練習投球で感覚を呼び戻し、集中力を高めた。緊張するとか堅くなるとか、そんなことを見せることの少なかった僕は、この時もポーカーフェイスで通した。キャッチャーの森田がマウンドにやってきた。

「カーブはいらないぞ」

笑顔だったが、目は笑ってなかった。

「どうせ投げれないって」

「全部真ん中来い!」

もともとコントロールには自信がない。真ん中ねらっても適当に散らばっていってくれる。4球を出さないことが1番大事だ。スクイズされたらしょうがない。

 

慣れないセットポジションから3塁走者を見て大きく左足を上げた。ミットだけに集中して投げ込んだ。センターからのバックホームと同じように左足にしっかり体重をかけて全身の力をこめた。真ん中高めのストライクになった。歓声が上がった。2球目にスクイズにきた。足を上げた時にスタートをきるのが分かったがかまわずに投げ込んだ。少しアウトコースにそれた高めの球をファウルにしてくれた。3球目もスクイズもやってきた。うまいぐあいにインコースに外れた速球に押されボールはバックネットへのファールとなった。3振でワンアウト。次のバッターは初球からスクイズをやってきた。これもストライクゾーンから外れた速球で1塁ファールフライになった。ツーアウト満塁。味方ベンチから大きな歓声が上がった。

 

そして3人目。この1番バッターは相手にとってはいやな「うまい」選手だった。初球、外側に外れてワンボール。次の球が勝負と感じた。スクイズはないので大きく足を上げて全力で腕を振った。バックネットにファールとなった。タイミングは合っていた。3球目更に力を込めて腕を振った。インコースに外れた高めの球に対してバッターが左肘を突き出すようにしてボールがあたった。いや、ボールにあたりにきた。明らかな死球ねらいの動作だった。主審がタイムをかけた。バッターは死球のアピールをしている。

 

「あたった、あたった!」と相手ベンチも大きな声で騒いでいる。審判が協議のために集まった。1塁の塁審からは左肘を突き出してわざとあたりに来たことがはっきり見えている。「ボール!」という判定を主審が下し。バッターに注意が与えられ、ツーボールワンストライクから試合が再開された。その時相手の監督が主審に抗議にやってきた。判定への抗議は認められていないのだが、相手校の監督は判定が変わらないことをわかってあえてやっている。ピッチャーや相手守備陣へプレッシャーをかけているのだ。小学校の頃を思い出した。これがいやでピッチャーはやりたくなかったのだ。

 

もうボールにしたくない。4球でもサヨナラになってしまう。結果を考えずに真ん中に最高の球を投げてやる。渾身の投球と自分でも感覚があった。外角の低めに最高の球が行った。見送った、と思った瞬間に遅れてバットスウィングが始まり、「バスッ!」という音と共に森田のミットからボールがこぼれた。バットがミットをたたいた音だった。投球は低めのストライク。ミットにボールが収まってから「ミットを」打ちにいった。主審が再びタイムをかけ、塁審を呼び集めた。長い協議の結果「インターフェアー」の判定が下った。打撃妨害。バッターが打つのをキャッチャーがじゃましたという判断だった。バッターは明らかにミットを狙ったスウィングをした。

 

ベンチから勢いよく飛びだした大谷先生が激しく主審に抗議した。塁審たちが間に分け入った。

「なんだよあれー」

「きったねーぞー」

グラウンドを囲った金網の柵の外からも観客のヤジが飛ぶ。本部席にいた他校の監督たちも顔をしかめ、小声で話している。いったん下ってしまった判定は覆さないのがルールだ。3塁ランナーがホームを踏んで試合は終了した。ミットを打ちにいった相手校のバッターは両手をたたきながら1塁ベースを踏んだ。

 

「ヨッシャー!」という声が僕の耳になんとも悲しく響いた。

彼は何に対して喜びの声を上げたのだろう。自分の上手な演技にだろうか。審判をうまくだませたということになのだろうか。勝ったことで喜びの声を上げ、ベンチを飛びだした相手チームはみんながハイタッチを繰り返す。勝ったことを喜んでいるのはわかる。僕は自分たちが負けたという事実が悲しいわけじゃなく、こんな勝ち方を喜ぶ人がいることに悲しくなった。相手校のベンチでは監督や部長先生も大喜びだった。これで全道大会に出場できるのだ。僕はこのまま球場からいなくなってしまいたかった。森田は泣いていた。去年の7月のことだった。

 

「時田一也はその時ベンチにいて、大谷先生が相手監督をののしるのを聞いたと言っていた」

武部のしゃべり方がさっきまでの「テニス体験記」で盛り上がっていた時とは正反対だった。

「大谷先生は試合のあとに、相手の監督に『コノバカやろー!』って詰め寄ったんだ。そのことで連盟からかなり指導されたらしい」

「時田一也は、『フェアーじゃないのは向こうだろう?』って言ってた。フェアーの意味は違うけどね」

その意味の違いは僕には分からなかった。スペルが違うからと武部は言ったが、意味的には一緒じゃないかと思っていた。

 

「それが、野球をやめた理由なんだろう?」

「いや、楽しくなかっただけ」

「陸上は? 」

「たった、11秒しか陸上してない」

「それって、負けたのが悔しいってことだろう」

「違う!」

「じゃあ、なんだ!」

「人が走るのばっかり見てても面白くないから」

「100mじゃないのをやりたいんだろ?」

「それもあるけど、何種類もの競技がばらばらに始まって、いつの間にか終わって、なんだかかってに進んでる感じがして、自分がいてもいなくても関係なくて、ただ走って、跳んで、投げて……。それ見ながらテントで1人で昼飯食って……、どうやって楽しめばいいんだ?」

 

「ケンジー、それって……」

また武部の口調が変わった。

「……それって、やっぱり負けて悔しかった。そういうことだよ! お前、逃げてんだろ!」

「なにがよ!」

武部が少しひるんだ表情をした。まずかった。声の調子が、気持ちを隠しきれなかった。

「時田はさー、お前が札幌に出てきた理由も知ってるようだった」

「なんだってよ」

こういうしゃべり方が中学の時に敬遠される理由になっていた

「家族から離れたかったんでないかって」

 

ここに来てまで家のことを話題にしたくない。そのために札幌に来たのだ。

「時田なんてさ……あんまり仲良かったわけじゃないから、そんなこと知ってるわけない」

「ケンジ、僕はお前の家がどうのこうの、ってのとは関係なくお前が気になるんだ。なんだかこう、お前は凄い力持ってるはずなんだけど、最後の最後にすっと引いてしまって、いつの間にか自分を自分で蚊帳の外に置いてしまっているような、そんな気がしてる」

「そんな難しい言い方、良くわかんねえよ。お前ほど頭良くねえから!」

「いやー、ごまかすなって、お前は本当は頭もいいし、運動能力もずば抜けてる。それは間違いない。そんなことはもう俺はわかってる。けど、なんでだかさ、お前は自分を隠してしまってるだろ。」

 

「中学の担任も、本気で私立高校進めてくれたよ。南が丘なんか受かるはずないって。頭いいわけないじゃんか!」

「違うね。それは、勉強した時間が長いかどうかってこと。札幌にいてこの学校目指してきた奴らはさ、みんな、塾だとか家庭教師だとか、夏季講習だとか、勉強にかけた時間が違ってるからさ。頭の善し悪しじゃなくて、ここに入る目的意識の問題だ。お前にはそれがなかっただろう?」

「合格なんか、するはずないとしか思ってない」

「でもよ、お前の能力は、僕たち以上かもしれない。おまえはさ、自分にもっと自信持てば! 誰の目も気にする必要なんてないんじゃないの?」

 

「僕は、お前とは違う!田舎もんだからな」

「そう、臆病だよな!」

「おまえらのような都会育ちじゃないからな。しょうがねえだろう」

「いやいやいやいや、それは違うよ。野田君……」

また、武部の変なしゃべりがはじまった。

 

「……100m1回負けただけだろ。まだ、走り方もなんにも知らない素人なんだろう。僕とおんなじ。お前の野球だって最初からうまかったわけじゃないだろ。できないことばっかりだったはずだろ。100mだってきっと走り方ってのがあんのさ。でも、知らないから、結果でないから、面白くないとかなんとか言ってんじゃないの? 僕はさ、テニス初めてだけど、負けたけど、1ゲームも取れなかったけどさ、面白かったよ。相棒にはいっぱい迷惑かけだみたいだけど、これからこうしようって思ったよ。陸上だって100m以外にもいろんな競技があって、お前のやりたいっていう、やり投げ以外にだって夢中になれる何かがあるんじゃないの。それを知らないうちになんだかんだ言っても早すぎるだろ……、そうじゃないかね。ええ、野田君」

 

「なんなんだ! 変なしゃべりしやがって、この」

「お前は今までスポーツに関してはエリートだったと思うよ。それが、1から、いや、ゼロから始めなきゃなんないから戸惑ってるんだろ? プライド許さないんだろ?」

「そんなんじゃねーよ」

「いいじゃんか、誰もお前の昔のことなんか知らないんだから。お前は、田舎からきた南が丘の生徒で、学ランで登校してくる変わったやつなんだから。そうやって自分の高校生活が始まったばっかりなんだぞ。そのキャラに自分から染まりきって行けばいいじゃんか。僕はそういうお前だから面白いと思うし、他の仲間だってお前を気にしてくれるんじゃないの? 逃げるのはなし!」

「逃げてるわけじゃねえ!」

「そーおー、僕には逃げてるようにしか見えないね。いいかケンジ、ここは南が丘高校なんだぞ。お前の昔のこと知ってる奴なんか誰もいないんだし、逆によ、お前がどんなやつかみんな興味持ってるんだぞ。逃げる必要なんてないだろうよ。」

「……」

「時田一也はおまえのこと『ノダケン』だとも言ってた。意味はわかんないけど、カッコいい呼び方だよな。」

 

祖父の名は野田謙三、父は野田健悟、そして曾祖父は野田謙輔という。明治初期に網元だった「野田家」の家名はいつの頃からか「野田の謙輔」「ノダノケン」「ノダケン」という通称と共に広がっていったという。祖父の頃には既ににしん漁華やかりし頃の網元制度はなくなりつつあったが、野田家はその家名と人脈を残していた。地主と小作農にも似た網元と網子の関係は精神的なつながりとして残っていて、野田家に対する畏敬の念は地域の名士としての部分を強くして残された。祭や興行に際してのとりまとめや選挙運動での挨拶回りが「野田家」を抜きに始められることはなかった。網元から水産加工場経営となったあとも「ノダケン」という呼び方は、野田謙三、野田健悟、野田賢治と受け継がれてきた。中学校では、その「ノダケン」としての立場が僕の上に重たくのしかかっていたかもしれない。

 武部は、祖父の言った「本物」なのかもしれない。