南風の頃に

田舎町から札幌へとやって来た高校生の物語。

第一部 5・ 中川健太郎

 

 

高体連札幌地区予選が4日間の日程で行われた。春季記録会の行われた円山競技場ではなく、厚別陸上競技場が会場となっていた。中央区にある南が丘高校から厚別までは地下鉄とバスを乗り継いでいくことになる。はまなす国体のメイン会場として使われたこの競技場は、円山以上の収容人数を持ち、J1にまた昇格したコンサドーレ北海道のホームにもなっている。

 

円山と比べてゴムの走路はレンガ色が濃く、表面のゴムチップの数も安定していた。走路も固めなので記録が出やすいのだそうだ。ここにはサブトラックが隣接していて、各校のテントはサブトラックの周囲に張られていた。

 

上野先生のすすめで僕は混成競技に出場することなった。青嶺高校との合同練習からわずか4週間足らずだったが、八種目それぞれのやり方をいろんな人に教えてもらった。中でも一番教え方が高度で厳しい口調だったのは山野紗希だった。青嶺高校の練習にもその後2度参加させてもらい、なんとかそれぞれのルールややり方だけは覚えられたと思う。

「あとは、経験だ。まあ、失敗してきな!」

沼田先生らしい、なんとも気合の入らない激励の言葉で今日を迎えた。上野先生はズバリと物事を判断しポイントだけを話そうとし、沼田先生は何かはぐらかすような含みのある言葉で教えようとする。この2人の夫婦はこうやってうまくいっているのだろうか。

 

テニス部の武部は今日も円山で試合があり、今回は陸上部の中で一緒に行く人を探さなければならなかった。

「一緒に行こう」と声をかけてきたのは下宿先の丹野邸の近くに住んでいる中川健太郎だった。

「長いこと待ちかねた跡取り息子なんですえぇ……」

丹野の婆さんが長い話をしてくれた。優秀な姉3人になんでもみっちり仕込まれた末っ子の長男が健太郎なのだという。

「中学の時からお勉強のよくできる御曹司なんですよぉ。野田さんもああぃう人と付き合っておくといいですよ。せっかく南が丘のような学校に入ったのですからねぇ、つきあう仲間をしっかり選ぶことが大切ですよぉ」

丹野のばあさんは、なぜか武部を気に入っているようなのだが、武部に対するのとは全く別の褒め言葉とともに、いつものように朝早くから朝食を準備してくれた。

 

健太郎は当然、実家の病院を継がなくてはならないのだろう。南が丘高校には同じような境遇の生徒がたくさんいる。僕とはまた違った荷物を背負っている奴らもいるのだ。いや、僕の背負っているものなんか、特別珍しいものでもなんでもないごく普通のことなのかもしれない。健太郎が自分のことを話しているのを聞いたことがないのでそのあたりのことは全くわからない。でも、家庭環境は違っても、僕と同じように、自分だけの時間を生きたいと願うこともあるのだろう。彼の走っている姿が悲壮感や苦しみを感じさせないのも、自分の選んだ自分だけの時間を楽しんでいることの表れのような気がする。

 

路面電車でも地下鉄でも隣り合って座りながら、2人は一言も言葉を交わさずに競技場まで来ていた。自分以上に社交下手な健太郎にいらつきを覚えながら、自分も他の仲間からこうやって思われているのではないかと感じることになった。地下鉄はモーター駆動とゴムタイヤで滑るように静かに進んでいった。途中で、後ろの車両からジャージにウインドブレーカー姿の集団がやって来た。男ばかり20人以上もの彼らは大声で話しながら、一つ先の車両へと移っていった。健太郎はその中に知り合いがいたらしく、その集団を見た途端にスマホを出してゲームを始めた。1500mの走り方を聞きたかったが、まともな答えが返って来るとは思えなかった。

 

6月3日木曜日。午前9時に、僕は厚別競技場のスタートラインにいた。目指すゴール地点の向こうもスタンドで囲まれ、初夏の青空が楕円形に切り取られていた。柔らかな風が流れていた。濃い赤色のシャツを着たスターターが叫んだ。僕ンジ色のキャップには高体連のマークがあった。

「オン ユアー マークス!」

国際大会に合わせて、最近では高校総体の地方予選でも英語でコールすることになったのだそうだ。

 

両手を白線の内側においた。ゴムの手触りが円山とは違った。この時間ではまだ冷たさを感じる。肩を白線より前に出し両手に体重をかけた。風が額にやってきた。少し伸びた前髪に風が当たるのを感じた。

「セーット!」

少し長めに感じる声に続いて号砲が鳴った。

「バスッ!」

右足を近めに着地し、左、右、と足の親指が地面を捉えていく。4歩目、5歩目、視線は低く保ったままだ。スピードが上がってきた。スタートからピックアップ、中間走、うまく動けている。力みは、いらない。真っ直ぐにゴールに向けた顔に風がやって来る。肘を中心に腕は前後にリズミカルに振る。指先まで伸ばした手のひらが目の高さまで上がっていた。あと10m。白線を次々に通過した。腕を後ろにはね上げるように胸を突き出した。自分のレーンに沿ったまま第1コーナーを少し回って右側へと方向を変えた。ゴール左に置かれた速報掲示に11.48と表示された。

「おーっし!」

思わず声が出た。スタンド下の通路を通ってサブグラウンドへ行こうとすると後ろから声がかかった。

 

「速いねえ!」

振り返ると、「恵庭体育」のネームに緑の2本線をあしらったユニフォームが目に入った。胸の厚みが圧倒的だ。

「1年生だよね!」

日に焼けた顔、短く刈りあげた髪の毛、長さを揃えた眉毛……、地下鉄の中で大声で話していたグループのうちの1人だった。

「そうだけど」

「すごいね!」

作り笑いをしたような顔が子供っぽく見えた。地下鉄の中では彼も「1年のくせに……」と言われていたはずだ。

「うん? なにが?」

「南が丘ってさ、勉強だけじゃなく、陸上も強いからさ。」

 

敵となる相手を無理して褒めるのは、野球をやっていた頃に随分と経験した。ヒットで出塁した時に1塁手や2塁手が話しかけてくることがある。たいていの場合はおだてておいて油断させ、ピックオフプレーを仕掛けてきたり、ピッチャーやセカンドに牽制のサインを送ったりしている。強いチームの「うまい野球」をする選手がほとんどだった。こいつも似たような表情をして話していた。

 

相手のペースに乗らず、自分の集中を保つためには、適当に話を合わせておくだけにすることだ。早々にジャージをはおり、2種目目の走り幅跳びに向かった。正面スタンド前の幅跳び用のピットは観客の視線の1番近くにある。平日に陸上の試合を見に来る観客などほとんどなく、まばらに見えるのは高校の関係者と選手の家族だけのようだった。短距離用とは踵の形や靴底の厚さが違うらしい走り幅跳び用のスパイクに履き替え、助走練習を1本だけ跳んで足合わせをした。幅跳びの練習はほとんどしてこなかった。

 

「幅跳びはそれなりに。ファールしないこと」

沼田先生の言葉通り、ファールせずに記録を残しておけば、次の種目にまた挑戦できる。他校の選手たちはメジャーで助走距離を測ったり、途中に足合わせのマークを置いたり、本格的な準備をしていた。彼らはきっと中学の頃から陸上に関わっていた選手なのだろう。中学校では四種競技という混成種目があり、走り幅跳びもその中に含まれている。僕は彼らのやり方をじっくり見て、勉強することにする。今の僕には準備の仕方もわからない。試合自体が貴重な実践練習だった。体を冷やさないようにジャージのズボンを履き、他の選手の練習を眺めていると、5m台後半から6mちょっとくらいの記録が多いようだ。踏切前の動作が上手い選手を見分けたかった。

 

1本目は踏切を合わせることだけを意識して慎重に跳んだ。助走のスピードはそれなりに上がっていたが、ファールにならないことを第一に考えていたためか、踏切版に少しだけつま先が乗り、「低空飛行」のまま着地するような跳躍になってしまった。ピット横に設置してある計測版を見ると、6mを超えていることがわかった。

「6メートル15」

年配の計測員が叫んだ。肩の力が抜けたような気がした。初めて走り幅跳びの公式記録を手に入れたことになる。沼田先生は大迫さんよりもいくかもしれない、と言っていたのだが、大迫さんがどのくらいの記録を持っているのかは聞いたことがないままだった。彼の出場する走り幅跳びはあすの午後から行われる。  

 

喜多満男がスタートをきった。通路で話しかけてきた恵庭の選手だ。彼の100メートルは12秒02という記録だった。中川健太郎と同じぐらいの長身だが、肩幅が広く、胸の厚みは中川健太郎の倍もありそうだ。大きなストライドでスピードを増し、高く踏み切った。空中で足を2回こいで右足から着地した。砂が前方に飛び散り、後を追いかけるように着地後の彼も手の反動を使って前に跳んだ。踏切前の動作を見ても、練習を重ねたことを感じさせる跳び方だった。「6メート、ゼロ、ハチ」と年配の計測員が慎重に数字を読んだ。喜多満男は脚に付いた砂を両手ではたき落としながら顔をしかめた。1回目の跳躍では6m35の記録を出した札幌第四高校の選手がトップだった。

「ダイヨンの混成は強いよ。伝統だから」

喜多満男は自分の学校を自慢するかのように、札幌第四高校のことを語っている。人のことはどうでもよかった。僕は自分のことに集中する。

 

2回目は助走距離を長く取りスピードを上げてみた。記録が残っているのでファールは怖くない。助走後半にスピードが上がってきた。まだ、踏切前三歩のリズム感がつかめないまま高く跳びだしたせいか、着地動作が上手くいかない。空中で身体をいっぱいに反らせた反動を使って両足を前に投げ出す。早すぎた。砂に届く前に膝を畳んでしまい、しゃがんだ姿勢で砂場に落ちた。不格好だった。へたくそだった。それでも1回目より距離は伸び「6メートル35!」という声が聞こえた。

 

「おおっ!」「へえっ!」と、選手たちの声が小さく聞こえてきた。「意外なやつが結構な記録を出した」そんな意味の声に聞こえた。喜多満男が奥歯をかみしめたような表情を見せた。

「野田!……野田!」

と呼ぶ太い声の主は沼田先生だった。やり投げの役員で移動する途中に今の跳躍を見ていたらしい。

「パスしろ!パス!もういい!」

胸の前で両手をクロスさせている。

「いいか、混成競技はきついぞ。八種目全部に全力なんか出してたらつぶれる。どの種目でどれだけ力を抜けるかが大事なんだ。」

それが昨日の練習でのただ1つのアドバイスだった。技術的なことを教えもしないで混成競技に出そうとしているのに、力を抜くことだけ教えるなんて変だろうと僕は思っていた。

「全くやったこともない競技をするんだから、どこかで休まないと、いくらお前がタフでもやっぱりつぶれるだろう。」

「練習のつもりでって、言ってたじゃないですか。やったことないからこそできる限り経験してきますよ!」

「幅跳び、砲丸投げやり投げ、高跳びはできる限り試技回数を減らせ。できる時はパスしろ。いいか、1回目を大事にしろ!ファールをするな!」

 

今の跳躍の力みすぎをちゃんと見ていたようだ。

「いや、いいとこなんですから。ちょっと分かりそうなんです。あと1本行きます」

言葉は届かないようなので、大きく首を振って両手で頭の上に円を作った。

「せっかく記録伸びてきたのに、ここで止められねえだろ。着地の仕方は跳ばなきゃわからんでしょ」

3回目。さっきは走路に置かれたメジャーで33.5mのところからスタートして詰まり気味だったので、30㎝伸ばして33.8mからのスタートにした。1歩目からしっかりと地面を蹴って……、膝を高く上げて……、スピードを上げて……、踏切前の動きを意識して……、小さく速い動作で跳びだした。右膝から下を振り出すようにして大きく体をそらし、その反動で両足を前に出し着地の姿勢を取った。

 

体よりかなり前方に両足が着地し、後ろの手を前に振り膝を曲げて前方に持っていこうとした。……が、その前に潰れてしまった。膝が曲がった時に尻餅を付いたように腰が砂に埋まってしまったのだ。そのまま横向きに転げて砂場から立ち上がったが、記録となる踏切からの最短地点には左手の跡がはっきり残り、そのすぐ前には大きな凹みがついていた。ケツのあとだ。しっかり座り込んでしまった。

「5メートル78」と計測員が叫び、記録員が復唱して書き写した。立ち上がって砂を払っていると

「惜しい、惜しい! 80くらい、いってるぞ!」

さっきの計測員が笑っていった。

「はい、下手くそで……」

実際うまくいかないものだ。喜多満男たちは練習量が多いのだろう。今のと同じ状態からしっかり立ち上がっていたはずだ。

「惜しかったねー」

すれ違いざまにそう言った喜多満男の顔には、ホッとした表情が浮かんでいた。幅跳びの踏切動作と着地姿勢は練習課題として残ったが、結構面白い競技だということがわかった。ただ跳ぶだけなのではない。ポイントはいくつもあった。

 

「どんなスポーツもおんなじ。その競技に独特の動きがあるの。野球だと牽制球に対して飛び込むようにして手から1塁に戻ったりするでしょ。1番効率的で素早い動きになるからああやって動く。ほかのスポーツにはない動きだよね。同じように陸上でもそれぞれの種目に独特のポイントになる動きがあるんだよ。それも、やっぱりその種目に特化した必要な動きなんだね。だからそういう動き方を何度も練習しているのが陸上なんだと思っていい。その種目の特性をつかむこと。それを見つければいいんじゃない。」

合同練習で上野先生が言っていたことを思い出した。沼田先生はこういう具体的なことを言うことはないのだろうか。

 

 三種目目の砲丸投げが14時30分から始まる。幅跳びが終了したのが12時30分なので、ゆっくりと昼食をとることができた。2時間おきに組まれた四種目はたいしてきつくはなかった。まだ、100m1本と幅跳び3本しかやっていない。言われていたような体力の問題は全くたいしたことはない。サブトラックのテントに戻ると1500m予選を終えたばかりの中川健太郎がいた。スポーツドリンクを飲みながらジャージを着ているところだった。

「速いね、お前」と小さな声で言った。彼から声をかけてくることは珍しかった。

「お前はどうだった?」という質問にはちょうどテントに戻ってきた山口さんが答えた。

「2位通過だけど4分11秒。スタートからずーっとイーブンペースで走りきった」

「いい記録なんですか」

僕には記録のイメージがない。自分も明日八種競技の最後に1500m走ることになるのだが、どのくらいの記録が速いのか遅いのか、まるでわかっていない。

 

「8組2着プラス2で18人残って決勝に行くんだけどね、健太郎の記録は6番目くらいだと思う」

山口さんは、どんなに当たり前で知らなければならないはずのことでも、こうやって丁寧に教えてくれる。坪内航平先輩あたりだと「ばーか、何にも知らねえんだなお前。鈍いんじゃねえの!」で終わってしまう。

「へー、決勝いつ?」

「4時半」

ジャージを羽織った中川健太郎はこちらを見ずに言った。

「僕の400がそのあとだ。すぐ近くで見れるな」

山口さんから視線を移すと、彼はバックから取り出したプログラムを開いて顔を上げた

「喜多満男。いたろ、同じ組に、八種の……」

「ああ、恵庭体育の? 知ってるの?」

「僕、あいつ、嫌い」

ETが日本語を覚えたらきっとこういう言葉になるだろう。中川内科胃腸科医院は、こんなET語を発する後継でいいんだろうか。

「なんで?」

聞くまでもなく、中川健太郎と喜多満男ではうまくいくはずがない。

「騙される」としか彼は言わなかった。

山口さんはもう次の競技のタイム取りに行ってしまった。それ以上話そうとせずに中川健太郎は「クールダウンしてくる」といってサブトラックに向かっていった。テントの中は僕1人になり、またひとりで弁当タイムだ。

 

丹野の婆さんはどんな時でも手を抜かずに弁当を作ってくれる。ほぼ毎週のように試合や練習があるのに、朝食の時までには必ず弁当ができあがっている。焼き魚と出汁巻き卵が必ず入った弁当は、そのまま花見にさえ持っていけそうな内容だ。スポーツの大会に持ってくる弁当としてはどうなのかはわからないが、上品な弁当を毎回作ってくれていることだけは間違いない。こんなふうに弁当を作ってくれる下宿は他になく、祖父が見つけてくれたこの下宿は、いや、丹野さんは僕には恵まれすぎた下宿なのかもしれない。多分京都風であろう薄味にも慣れてきた。かといって、試合の結果などは全く聞くつもりはなく、汚れたユニフォームの洗濯だって一度も苦情を聞くことはなかった。今は苫小牧に住んでいるというアイスホッケー選手だった息子さんが高校生だった頃を思い出しているのかもしれない。

 

 サブトラックに出てみると砲丸のサークルで青嶺高校の高松菜々子さんが砲丸を持たずに投げの構えをチェックしていた。もうすぐ決勝が始まる時間だ。午前中の予選では1投目で通過したが、集中できない部分があるのだという。予選記録は8mに設定されている。高松さんは10m67の投擲で全体1位通過しているはずだ。女子砲丸投げの後が八種競技の砲丸の順になっているので、高松さんの投擲をじっくり見学できそうだ。

「そうだ、ちょっとお願い、もう少し下がって目印になってくれない。サークルの後ろの方、そう、もう少し後ろ」

「ここら辺ですか?」

「そう、そのへん。動かないでいて」

高松さんは投げの瞬間まで僕の方を向いたまま、グライドから突き出しまでの動きを何回か繰り返した。左肩と顔を最後までしっかりと残して突き出しの瞬間まで直線的に前に進んでいた。

 

「うん、よかった。いい感じ! なんかいい時に来てくれたね。うまく残せるようになった」

「顔残ってたし、開きがなくなりましたよ」

「わかるの?」

「野球と似てんですよ、投げの時の動きが」

「そう!おかげで今日は勝てる!」

「女子の次が、八種だから、見てますから。頑張ってください」

「勝てたらなんかおごってね!」

「はい、練習でお世話になりましたから、そのうち……」

「ウソウソ、そんなことしたら皆に八つ裂きにされちゃうよ!」

「はい?」

「ま、いいのいいの。しっかり応援してよ」

「分かりました。新記録出してください」

高松さんは12m56㎝を投げて優勝した。彼女の他に10m台を投げた人は1人しかいなかったのだからダントツの楽勝は分かっていたのに、最後の6投目までしっかり左肩を残し顔を残し、最後のスナップの瞬間まで集中力を切らすことはなかった。彼女の見ているものは他の人達とは違っていたのだ。

 

30度の角度に開いた計測エリアの外側に置かれた、傾斜のあるレールの上を砲丸が転がって戻ってきた。試合が始まった。試技順7番目に名前を呼ばれ、外側半分の位置に引かれた白線の後ろからゆっくりとサークルに入った。

自分の打順にあわせてベンチ裏で素振りをしたり、ネクストバッターズサークルに片膝着いて待っていた野球部時代を思い出した。サークルの1番後ろに右足のつま先をあわせ、右手の中指の付け根に砲丸の重心を乗せた。人差し指と中指の3本で支える。親指と小指は力を入れずに添えるだけにする。あごの下に構え、左腕を右膝にまで下ろして左足を後ろへ大きく踏み出した。右膝にためた力を1気に左に移しながら投げの構えをつくり、左腕を強く引きつけて右腕を前方高くに突きだした。

 

砲丸の重さを手のひらで受け止める前に小指側が先に前に出てしまったようで、中指に重心のあった鉄球は人差し指に滑り、スライダーを投げた時のような角度で手首が曲がってしまった。低い角度で放たれた鉄球は、力なくボスッと芝の上に落ちて少しだけ転がり、右側のファールラインに沿って止まった。力が砲丸に伝わりきらない投げになってしまった。

「9メートル、16センチ」と計測員がつまらなそうに声を上げ、女性の記録員が復唱した。スローカーブを待ちきれずにボールが来る前にバットを振ってしまった時のように、力を伝えきれなかった歯がゆさが残った。投げよう投げようという気持で体が突っ込んでしまったに違いない。

 

 高松さんがサブトラックで僕を目印にしてチェックしていたことは、左肩を開かないことと顔を残すことだった。野球と同じだって自分で納得したことを思い出した。そして、さっきまでここで投げていた高松さんのイメージを追った。2投目はそれをやってみることにした。何か目印になるものを探した。見回すと最終コーナーの向こうに観客席の通路の切れ目が見えていた。コンクリートの上に鉄製の手すりが付いていてちょうど正面の位置で階段へと折れ曲がっている。少し遠いけれどもいいかもしれない。

「634番、野田君」

女性の記録員の声が僕を呼んだ。各校の顧問の先生たちは、それぞれ競技役員も兼ねていた。沼田先生はこれから始まるやり投げの判定員をすることになっている。きっとこの人もどこかの高校の先生なのだろう。

「はいっ!」

「おしっ!」

野球部式に今までの誰よりも大きな声で返事をすると、計測係をしているかなり年配の役員がそれに呼応して笑顔を作った。この人が高校の先生でないだろうことは想像できた。年を取りすぎている。きっと、若い頃には自分も選手としてならした方達なのだろう。自分の若い頃の記憶や楽しみを僕たち高校生の競技する姿と重ねているのかもしれない。同じような年配の審判員の方がそれぞれの競技に必ずいた。

 

右足のつま先をサークルの1番後ろの位置に合わせて、真っ直ぐに立った。頭上に挙げた右手には6㎏の砲丸がおさまっている。肘を真っ直ぐにして支えてやると、ほとんど重さは感じなくなった。そのまま、正面の手すりと階段の付け根を見つめた。移動していく選手が視界に入ることもあるがそんなことは気にならない。

1点だけに意識を集中させ、右手をあごの下に構え、左足を後ろに大きく上げた。右足1本でバランスを取り、左足の膝を曲げ前方に小さく丸まってしまうように右膝を深く折った。少し腰を後方に移動させ、わざとバランスを崩し、後ろに倒れてしまう寸前に左足をすばやくステップした。曲げたままの右足の角度をそのまま維持し、左足は身体の真後ろより少しだけ左に着地させる。投げの形ができた。ここから一気に体重移動をして右腕を突き出す。その間もずっとポールの付け根から目を離さない。左腕も後ろに残しておいた。右膝にたまった力を1気に解放し、左足にしっかりと重心を移す。左肘から肩を大きく回して、右腕の砲丸を目の高さまで引き上げて手首のスナップをきかせながら放りだした。左右の脚を入れ替え、右足でサークルの足止めを内側から蹴った。右腕のフォロースルーがきれいに決まった。センターからのバックホームがワンバウンドでキャッチャーまで届いたイメージだった。

 

1投目よりかなり高いところを6㎏の鉄球は飛行し、「バフッ!」という音とともに芝生の中にめり込んだ、と思う間もなく跳ね上がり、わずかだけ転がった。

「ジュウイチ メートル ジュウハチ!」

おじいちゃん計測員がうれしそうに叫んだ。

「11メートル18センチ」

机に向かって座った女性の先生が復唱して記録した。周りの選手達から小さな声が上がった。ここまでで3番目あたりの記録だった。

高松さんの投げが頭の中にしっかりイメージされたまま始まったおかげで、11mを超える記録を出すことができた。八種競技参加者全体の中で11mを超えたのは僕を入れて3人だけで、札幌第四の3年生が11m25㎝、中川健太郎に嫌われている喜多満男が11m80㎝を投げた。喜多満男は、3投の間に頻繁に話しかけてきた。自分の得意種目である砲丸でプレッシャーをかけておきたかったのだろう。あの厚い胸板は本物だったようだ。そして健太郎が嫌っているわけも理解できた。

 

芝生に横になって全員が終わるのを待った。曇りがちだった空が今は快晴になりつつある。スタンドで楕円形に切り取られた空を見ていると、いろんな音が聞こえてきた。

スパイクが踏み切り板をたたく音。舞い上がる砂が見えてくるような着地の音。測係が記録を読み上げる声。ピストルの号砲。観客席のざわめきと声援。そして走者の呼吸……。いろいろな種目がこの楕円形のあちこちで同時に進行している競技場にも、なにかに向かって集積していく音の流れがあった。盛り上がりも静寂も、トラックを蹴るスパイクの音も、喘ぎ声やため息さえもが生き物のように近づいて来ては……遠ざかっていく。

 

たった1つの白球に、全員の目が1斉に注がれる野球場とは違った楽しさや、美しさや、何かに左右されたような空気の流れ、いや、選手たちの気持ち……、なのか。ここ厚別競技場の中には、いろいろな生命感やエネルギーが満ち溢れていた。これが陸上競技の「面白さ」なのかもしれない。野田賢治は初めてそんな風に思いながらも、これからこなさなければならない種目について考え始めた。

 

シャサシャサ、とウインドブレーカーのこすれる音をさせて、寝転んだ僕を真上からのぞき込んだのは、悔しさを隠しきれない言い方をする喜多満男だった。

「すげえな、余裕あるべや!」

「いや、君より体力ないから。」

「山西哲也って、同じ中学だろ?」

「あー、一緒なのか! 恵庭で!」

「野球、なんでやめたの? 北海とか北照とか駒苫とか、誘われたんだって?」

こういう時にあんまりしゃべりたくない話題を持ってきたこいつのねらいはよく分かる。が、昔からこういう奴らの扱いには慣れていた。大人も子どもも、こういう時の言葉の裏になにが隠されているのかは見えるような気がする。

「陸上やりたかったから!」

 

長い話は必要なかった。お前だってやりたいからやってるんだろう。これ以外に夢中になれるものないからやってるんだろう。いいじゃないかそれで、僕とお前はおんなじさ、自分のために走ればいいじゃんか。跳べばいいじゃんか。人のことなんか気にするなよ。自分のために時間は使うもんだろう。お前に勝とうなんて思ってないから心配すんなよ。何か言いたげな喜多満男だったが、言葉を奪われたように僕の顔を見ているだけだった。

 

低い木に囲まれたサブトラックには、熱心にアップする選手たちの真剣な顔があった。フィールドの中でもトラック上でも、みなそれぞれの方法で試合が始まる時間に合わせて調整している。

健太郎がいた。トラックの1番外側をゆっくりとジョギングしている。細く長い脚の左右の踵が柔らかく地面を捉えている。着地した足の上には常に真上に腰がやって来る。スピードが上がってもそれは変わらない。小さくたたまれた両手の肘も脇から離れることなく低い位置で振れている。視線がしっかりと前に固定され、頭の高さは変わらずに流れるように前に進んでいく。長身で手足の長い中川健太郎が上下動の少ない走りでトラックを周っていると、ほかの選手とは別次元の存在に見えてくる。速そうだとか強そうだとか、その能力じゃなく、なんだか哲学的な存在に感じられてしまうのだ。それはどんな言葉で説明しても説明しきれないような、彼の生き方そのものが走っているような、そんなふうに感じられてしまう。

小さな乾電池1本で動くモーターを動力としているかのように、小さな腰からぶら下がった真っ直ぐな脚が、なんの未練もブレもなく、自分の正面に対してしっかりと踏み出していく。両方の足のつま先がどんなときでも正確に真っ直ぐに着地するのだ。走り去っていく後ろ姿の肩幅の狭さが印象的だ。

 

決勝のスタート後も中川健太郎の走りは変わらない。1周を66秒きっかりでラップを刻んでいる。先頭が飛び出そうが、後ろに付かれようが全くそんなことは彼には関わりのないことで、自分の決めたタイムで走る。2周目も66秒きっかりで回ってきた。スタートから飛び出した選手も今は1団となっている。3周目、かなり集団がバラケて大きな塊だったものが縦長の列になった。

先頭集団は6人ほどの塊で位置取りを争っている。ラスト1周の鐘が鳴っても動きはなかった。第2コーナーを回って中川健太郎はやはり66秒きっかりで400mのラップを刻み1200mを通過した。バックストレートの直線になったとき先頭集団のうちの2人がスパートした。2メートル、4メートル、差が開いていく。それでも中川健太郎は変わらない。疲れている様子もフォームが変わったふうもない。第3コーナーのカーブに差し掛かり先頭との差は10mほどか、ここから行かなければ追いつけない。ここにきても、彼の走りはサブトラックをジョギングしていた時と変わらない。前も後ろも誰がどこを走っているのかも関係ないというように、なんとも力感のない柔らかで軽い走りなのだ。ここから1気に力を爆発させて前の走者を追いかければまだいける。

けれども、健太郎は行かない。変わらぬペースでコーナーを回っている。最後の力を振り絞って力感たっぷりに何人かが抜いて行っても、やはり同じペースでゴールまでやってきた。6着に入ったので全道大会への出場権は得たけれども、勝とうという気持ちは全く感じられなかった。

 

ゴールしたあともそのままのフォームでゆっくりと動きを止めた。下を向くことも膝に手を当てて顔を歪めることもなかった。右手にはめた時計の数字を見ている。

400mを66秒で正確に走り通した。800mを2分12秒、1200mで3分18秒、残りの300mを47秒5で走った。4分5秒5。100mをちょうど16秒5で走ったことになる。山口さんがラップを記録していた。

「中川くんはこういうレースをする人なんだからいいんじゃない」

「負けてもいいってことですか?」

「そういうことじゃなく走ってるんだと思う。つぎはきっと65秒で走ろうとするんじゃないかな」

「でも、レースってのは、競争するっていうことでしょう」

「そうね。中川健太郎は、レースをしていなかったってことでしょうね」

「大会に出場してるのに? 決勝ですよ?」

「中川くんのことは中川くんが決める」

そう言う山口さんの表情はなんだか嬉しそうにさえ見える。もうそれ以上話す時間はなかった。八種競技の400mの時間だった。

 

 先週から今週のはじめにかけて、インターバルトレーニングバウンディングという練習を繰り返してきた。きつい練習だった。

「まだ眠っている筋肉と神経に喝を入れて目覚めさせてやれ!」

そういう沼田先生の檄で、短い時間ながらも強い強度の負荷を与える練習だった。

「これで400mも大丈夫だぞ!」

沼田先生の言葉は相変わらず抽象的で、僕には何がどういうふうに良いのかわからないままだったが、専門の先生が言うんだから、とにかく大丈夫なのだろう。

2レーンからのスタートは有利だと思った。階段式スタートの400mでは他の選手の走りを見ながら調整できる利点がある。前半に抑えておいて最後に一気に抜き去る計画も立てやすい。観客として見ている方は最終コーナーを回るまで勝負がわからないので楽しめるだろう。でも、これは400mの勝負ではなく八種類あるうちの1つの種目。勝ち負けじゃなくタイムが問題なのだ。この競技の勝負は得点なのだ。今日はもう出場種目はない。全力で行こうと考えた。

 

スタブロに足を置いて顔を上げると、ほとんどの選手を見渡せる。4レーンには北翔高校の3年生佐々木宏大がいる。札幌第四の選手は6レーン。喜多満男が7レーンだ。

「負けたくない。」

号砲が鳴って、低くスタートを切った。7レーンが飛び出した。

「よし! 行くぞ!」

肩の力を抜いて肘から大きく腕を振った。腿を高く上げ、足首のスナップを効かせるように軽く地面を蹴って進んだ。バックストレッチの直線は追い風のようだ、体が軽い。200mを過ぎ第3コーナーのカーブに差し掛かる。アウトレーン側の選手が何人か前を走っていても慌てない。呼吸は辛くない。肩も楽なままだ。

「こっからだ!」

 4レーンの佐々木宏太が強かった。4コーナーを回ってからギアを入れ替えたように加速していく。喜多満男は限界を迎えていた。体が揺れ始めている。直線になってラストの100m。喜多満男の足が止まった。6レーンの選手が前にいる。追いつきたい。力いっぱい腕を振ったが、足が前に出ていかない。4レーンの佐々木宏太は先に行ってしまった。自分の呼吸の音が荒く聞こえている。風が向かっていた。状態が揺れる。残り10mの白線が見え、佐々木宏太に追いつけないままゴールラインを越えた。

「走りきれた!」

力が一気に抜け、呼吸の苦しさが増した。フィールドに倒れこんで膝を曲げたまま、脚の筋肉がつったのと同じような「ケツワレ」の苦しさが収まるのを待った。若草色のまだ短い芝生がほっぺたをひんやりといたわってくれた。初夏の匂いがした。

 

佐々木宏太の53秒51と札幌第四の54秒55に次いで、55秒03のゴールだった。喜多満男は55秒83と後半失速したが最後まで粘ってみせた。

得点が何点なのかは分からないが、やっぱり負けるのは悔しい。同じ学年の喜多満男と張り合っているわけじゃないが、負けたくはなかった。最後は自分の力以上に気持ちが先に行ってしまう。それが普通のことじゃないのか。力んでしまうとスピードが落ちると練習では何度も言われていても、自分の前を走っているやつには追いつきたい。抜いてしまいたい。そういうのが競争なんじゃないのか。中川健太郎はそんなことは考えていなかったというのだろうか。前を走るやつに対して何も感じないというのだろうか。

 

山口美優さんの計算が間違うことはない。1日目を終えて僕の合計は2568点でなんとトップの記録となった。2位の佐々木宏太に10点以上の差をつけ、喜多満男とはさらに10点の差がある。

「野田くんすごい。このペースでいったら5000点超えだって。5000点超えたら大会記録だよ!すごい点数!」

川相智子が自分のことのように目を輝かせた。女子走り高跳びで川相智子は1m48㎝で6位に入った。優勝を決めた山野紗希はリレーの練習でサブトラックにいた。彼女は1m57㎝を跳んだ。

「いや、まだ半分しか終わってないから。ハードルも高跳びも初めてだし、やり投げなんて練習でも1度も投げたことないんだ。どうなるかわかんないよ」

山口さんの作ってくれたスポーツドリンクに口をつけると、喜多満男の鋭い眼が思い出された。

「明日は負けねえぞ! 覚えてろ!」

芝生にしゃがみこんだ時の、無言の横顔が悔しさを発散させていた。

「おい、明日も頑張ろうぜ!」

芝生に転がっている僕に手を差し出したのは佐々木宏太だった。まだ走れそうな余裕があった。

「あ、はい」

立ち上がった僕はまだ「ケツワレ」の苦しさから解放されていなかった。混成をやるにはこれくらいのスタミナがなけりゃいけないんだと強く思った。喜多満男はその様子を見ながら奥歯をかみしめていた。

 

中川健太郎はこんなことは考えないのだろうか。

「絶対に負けねえぞ!」

言葉には出さなくとも、喜多満男のむき出しの感情が、僕が今まで生活してきた周りには満ち溢れていた。

「明日も頑張ろうぜ」

と相手に手を差し出す佐々木宏太のような「強い者の」余裕の行動も何度も経験してきた。勝負、レース、ゲームとどんな呼び方にしたって、スポーツは相手との勝ち負けを決めることが大きな目的だったり、努力の目標となっていたのではないのか。

陸上だって、たとえ自己記録を高めていくことが最大の目標であっても、そこに至るにはやはり、相手との勝負が有り、勝つことで前に進んでいく。負けは負けで次の勝負への蓄積となり意欲の源ともなる。勝つことも負けることも、順位さえも気になりはしないという中川健太郎の無表情さには、人として何かが足りないような違和感を覚えるだけじゃなく、いくぶん怒りさえ感じてしまう。

 

南風の頃に 第一部 4 上野悦子

 

 

「きりーつ!」クラス委員に立候補した小林啓悟が叫んだ。大森先生がやって来た。

「おはよう!」というバリトンがクラスに響き、「~まーす!」という男どもの語尾だけを強調した挨拶が反応した。口を閉じたままのやつも何人かいる。野球部の頃だったら大目玉を食らうはずの行為を、そのまま素通りさせて大森先生の話が始まった。

 

「ほら、しっかり顔を上げな!しばらく合わなかったけど、僕は元気だよって、顔を見せなよ! こういう時は!」

大森先生は挨拶できなかった生徒の方に顔を向けて言った。

「おまえたちが中学校の頃は、いろんな先生がいて、挨拶についてのいろんな言われ方をしてきたんだろうきっと。それぞれについて、良いとか悪いとか今は言うつもりはない。それぞれの学校事情もあったんだろうからな。」

いったん教室の窓から遠くの方に目をやり、正面をむき直して続けた。目が笑ってはいなかった。

「でもな、おまえら、今な、入学してから1か月、5月の連休も明けて、ちょっとこの学校にも慣れてきた時期だろう。たぶんな。でー、僕は、今思ってるんだけど……、いいかよく聞きな。おまえたちは学校だからと甘えている部分がずいぶんとあるようだ。きっと今までもそうだったんだろうし、今もそうだ。僕は、学校生活のいろんな面で君たちに対してそう感じています。でもー、……」

こうやって、「も」を強調して話す時の大森先生は怒っている時だ。

「……おまえたちがあと何年かして社会人として世の中に出た時に、大きなギャップに気づくはずです。それは、実はたいしたことじゃなく、例えば挨拶、例えば身だしなみ、そして、例えば食事の仕方……です。」

 

大森先生の話し方が丁寧になってきた。長い話しになる。クラスのみんなは覚悟した。そして、話しが止まる……間が怖かった。

「日本の歴史では、奈良時代平安時代あたりから、今言ったような日常的に毎日毎日繰り返されることに、その人間の価値の違い……まあ、別の言い方をすると人間としての完成度や魅力や人としての価値が現れるようになってきます。つまりもっと簡単に言うと、毎日毎日の生活のその時々に応じた適切な言動をとれるかどうかで、その人間の評価や信用度が決まってきたのです。今でもそうです。結論を言います。君たちの今の挨拶や、応対の仕方、身だしなみに日本人の大人としての判断を下すと、『下』、上中下の『下です』……」

 

「いいか、おまえたち!……」

教室内を見回す先生の目が鋭くなっていた。そして早口になった。

「少なくとも、目上の人から挨拶をされたら……、それ以上の丁寧さで、しっかりと挨拶を返すもんだ! 日本人の良いところは、まずはそういうところから始まるんだ! 縦のつながりが嫌いだとか、良いとか悪いとか、個人の性格が、とかそんな問題じゃない!人と人との関係は、こういうことから始まるんだ! それなしにどんな偉そうなごたくを並べたって、そんなのはたいしたやつらじゃねえ! 人間的にやるべきことをちゃんとやれる人間になれ! おまえたちは、優秀な南が丘の生徒と言われることが多いんだろうけども、こんなあたりまえのこともできねえ奴らを優秀なんて呼ぶやつは、アホだぞ! ……いいか! そんなこと言われる前に……もういいかげん分かれ!」

 

週にいっぺんは大森先生の「人生訓」が始まる。今日もその日だったようだ。40人の生徒の背中がすっと伸びた。

「もう1回、僕が入ってくるところからやるぞ! いいか!」

「はい!」40人の声がそろった。連休明けの淀んでいた空気が教室内から一掃され、みんなの霞んだ視界がリセットされた。大森先生が一度廊下に出てから再び入って来た。廊下側の1番後ろの席にいる僕からは、ドアの前で大きく息を吸う太い眉毛の担任の姿が見えていた。出て行った時とは全く違うにこやかな目をしていた。

「起立!」

小林の声に一段と力がこもっていた。

「おはよう~!」

にこやかに先生が言った。

「おはようございまーす!」

40人の声がそろった。語尾だけの言い方は誰一人いない。

「イヤー良い天気だね……。」

さっきの大森先生はもうそこにいなかった。目尻の下がった太く黒々とした眉毛を持った小柄な古典教師がいた。

 

中学の同級生で、恵庭の男子校に進学した山西拓也と記録会の日に再会した。

「オイス」と「チワー」を一日中言わなくてはならないから、1年生は毎日が緊張の連続だと愚痴っていた。「オイス」は「オハヨウゴザイマス」「チワー」は「コンニチハ」の短縮形で、この2つの挨拶を使い分けて一日に数十回は叫ぶことになるという。彼は中学から陸上部で、さほど挨拶を厳しく言われてこなかった。男子校の体育学科は慣れないことばかりなのだという。

 

朝、部室に登校すると、部屋掃除と洗濯から始まる。どこの部活の先輩でも会った時には動きを止めて「オイス」と大声で叫ぶ。体育学科というと、体力自慢と気の強さを持ち合わせた人達ばかり。全く顔見知りのいない自分にとっては、この挨拶の出来しだいでは憎まれ役にもなりそうで毎日緊張ばかりだという。

 

 テニスコートの周りを囲うようにしてある部室までは全力で走って行き来する。その途中であっても先輩らしき人を見つけると急停止しては「チワー」「オイス」と日に何回でも繰り返す。たとえ意図的でなくとも忘れようものなら、自分の部の先輩に伝わり「強い指導」となる。スポーツ自体は結果が全ての判断材料になるものだが、こと学校生活となると、スポーツに関わる者には年の差が全てなのだということを実感しているようだった。

「スポーツをやるやつに悪人はいない、なんて、あんなのは大ウソさ! ロクでもねえやつばっかりだ!」山西はかなりくさっていた。

 

そんなことは僕にはもうずいぶん前から分かっていた。小学校の時も中学の野球部でも、上手いやつ、強いやつはみんな、気が強く負けず嫌いなやつばかり。特に中学になって、先輩後輩という上下関係が公になってしまうと、人と人との関係はスポーツ本来の力関係じゃなくなってしまう。やっかみも無理強いも当然のことで、それを毎年毎年継承していく。野球部なんかその典型的な集団なのだから、挨拶ができないなんてのは考えられないことだった。

 

野球の能力差は学年に関係なくあったから、後輩がレギュラーになることはあたりまえのようにあり、それは仕方のないことだ。でも、野球部という集団で生きて行くには、プレーの能力じゃない力関係を把握してそれに従わなくてはならない。それはきっと10年前も、50年前も、そして今も続いていて、これからも続いていくだろう。年齢差は経験の差であり、立場の差でもある。持っている責任の差も含めて、学年や年齢という違いが厳然と存在する集団では、それは避けられないことなのだ。

 

山西は素直で真面目な長距離ランナーだった。きっと、彼は彼自身が今嫌っているシステムに順応して生きていくだろう。そして、来年からは同じように年齢という力を使うようになるのだろう。しかしそれも、大人になっていく段階で経験すべきことなのだ。日本社会の悪癖だとか、スポーツの弊害だとか、前近代的だとか、縦社会の悪いつながりだとかいろいろな批判はされている。祖父が何度も話していたように、間違いなく日本人はこうやって生きてきたし、日本人的な良い伝統も作ってきたのだ。批判するのは簡単だけれども、まずは自分がその場に立ってみる必要もあるわけで、日本人としてのつながりがここから生まれていることを実感してみるべきなのだ。

 

大森先生の生きてきた世界が僕たちの世界と違っているわけじゃなく、これから僕たちはその世界の一部分に飛びこんでいくことになるのだ。拒否はできない。まずはやってみなければならない。挨拶や人間関係だけじゃなく、僕たちの人生も結局そういうことなのかもしれない。

 

春期記録会の次の週に1年生部員十名が沼田先生に呼ばれ、青嶺高校の練習に参加するように言われた。今年の1年生は全くの素人はゼロで(いや、僕は素人だが)今までにない期待の学年なのだと山口さんから聞いた。今度の土曜日に青嶺高校の練習に参加するようにとの沼田先生の命令だったのだ。いつものように突然の沼田先生の命令で、なぜそんなことをするのか不安に思っていたのだが、今までのメニューや1人ずつの特徴を伝えるために山口さんが一緒に行ってくれることになっていたので、僕たちの気持ちはずいぶんと軽くなっていた。もっとも、なぜか長距離グループの4人は暗い顔のままだった。

 

その土曜日がやって来た。青嶺高校は南が丘高校から歩いて十分のところにある女子高で、同じ電車やバスで通学している生徒たちも多いと聞いた。

「おねがいしまーす!!」

40人にも及ぶ女子ばかりの部員たちが、1人1人いっぱいに声を張り上げ、深々と礼をして練習開始前のミーティングになった。僕たち10人の南が丘高校からの参加者は、誰もこの挨拶に付いていくことができなかった。ちょっと戸惑ったような、恥ずかしがっているような、別な世界に来てしまったと感じている生徒が多いようだ。長距離の中川健太郎は下を向いたままだ。去年までの僕だったら、当たり前のようにこの2倍は元気よく挨拶していたはずだが、わずか2ケ月ほどの南が丘の生活でこの挨拶の感覚を忘れかけていた。なんだか、昔の楽しかった時間が始まりそうで気持ちが高揚してきた。

 

「お願いしまーす!!」

かなり遅ればせながら誰にも負けない大きな声で挨拶をした。南が丘の9人は2回目の驚きの顔を僕に向け、青嶺高校の女子部員たちはクスクス笑いの目を僕に向けた。彼女たちは黒に僕ンジ色のラインの入ったジャージで統一されていた。二人の顧問のうち長距離を担当しているという秋山啓介先生が横目でにらんだような顔になり、女性の上野悦子先生が「フッフッ……」と声に出して笑い、山口美優の方に顔を向けた。山口さんは素晴らしく素敵な笑顔を僕に向けてくれた。笑われながら僕はなんだかうれしくなっていた。

上野先生が話し始めた。

 

「はい。じゃあ、今日は恒例の南が丘との合同練習になります。今年は1年生だけの参加ですが、みんな優秀な選手ばかりのようですから、お互いの良いところを学び合うようにして下さい。」

「はいっ!」

青嶺高校側は、すかさず全員が返事をする。僕も今回は遅れることはなかった。なんだか昔のリズムが戻ってきたようで、気持ちがきりっとした。楽しい1日になりそうだった。南が丘の9人も小さな声でぱらぱらと返事があったようだ。上野先生は返事を返すタイミングをしっかり取った話し方をしている。僕たちの自己紹介などもなく、話しがそのまま続いていった。

「では、今日のグループ分けです。長距離はいつものように秋山先生にお願いします。南が丘は男女2人ずつが長距離のようですから、山口さんと一緒に秋山先生に進め方を教えてもらって下さい。」

「はいっ!」

南が丘の4人は小さな声だった。いや、中川健太郎は下を向いていた。女子相手の練習にむくれているのだと僕は思っていたのだが、それは違っていた。秋山先生は駅伝や長距離の指導では名の知れた方で、厳しい練習方法でも有名な先生だった。そして、中川健太郎は中学の時に選抜チームの一員として秋山先生に指導され、その非常に厳しいメニューと叱咤の言葉を経験していたのだった。

 

「短距離グループと跳躍グループはいつもと同じですが、午前中は投擲グループも一緒になって下さい。」

「はいっ!」

走路にハードルが並べてあったり、高跳びのバーがかけてあったりと本格的な練習の雰囲気に、朝から期待感でいっぱいだった僕は、「午前中」という言葉ではっとした。午後からも練習するのだ。南が丘では半日の練習が当たり前だったので、忘れてしまっていた。弁当を用意してもらい忘れたのだ。下宿先の丹野の婆さんは、試合でも練習でも、日曜講習でもちゃんと弁当を用意してくれるのだが、伝え忘れてしまった。

 

 下宿先の丹野邸はここからでも走れば十分ぐらいで行けそうだったので、昼食時間には戻ってこようと考えていた。いろんな練習ができそうなことに比べれば、そんなのはたいしたことじゃない。最悪、昼食抜きだって何とかなるだろうと考えていた。

 

長距離の秋山先生はミーティングでは発言しないようで、「じゃあ、そういうことで、キャプテンどうぞ。」という言葉で上野先生の話が終わった。

「おはようございます。」

青嶺高校陸上部キャプテンの長野沙保里が前に出て話し始めた。益々野球部気分になっていった。野球部では最後にキャプテンがその日の目標や反省を伝え、試合前だとエールをかけたり、手拍子で盛り上げたりと円陣の中心で締めくくることが常だった。

高体連札幌地区予選まであと4週間になりました。3年生にとっては残り少ない時間ですが、今日からはいつも以上に1つ1つの練習を大切にして、自己ベストを目指して頑張りましょう。」

「はいっ!」

「南が丘高校の1年生の皆さん、こんにちは。」

「こんにちは」

今度は女の子達が素直に反応した。

「すぐ近くにある学校なのに、大会でしか会うことができませんが、今日は一緒に練習できる機会を作っていただきましたので、お互いの良いところを吸収できるように頑張りましょう。よろしくお願いします。」

「よろしくお願いします!」という40人の女子の声に「よろしくお願いします……」という、1人プラス9人の声が交差した。山口さんと同じようにしっかりとした話ができる青嶺高校のキャプテンに僕は大きく心を動かされた。いままで、全体をリードする女性を見たことがなかったのだ。

 

ロングジョグとゆっくりとした何種類ものストレッチのあと、スプリントドリルを長い時間かけて行った。短距離走の形を作るための基本的な動きを繰り返す練習だ。4月に陸上部員としての初めての練習を開始してから、このスプリントドリルの持つ意味が分かってきたのはつい最近のことだ。野球のキャッチボールや素振り、トスバッティングと同じ意味を持っている。動きを覚えてしまうと面白かった。とにかく毎日毎日繰り返し行った。青嶺高校の女子選手の動きは正確で速く、リズミカルだった。体育の時間にやったモモ上げだけじゃなく、膝から下の振り出し、ツーステップジャンプ、バックステップ、小刻み走、と何種類ものドリルがある。

 

力いっぱい走るためではなく、走りのための体の動きとリズムを覚えるための練習であるらしく、なんとなくうまくできるようになった時には自分の走り方が変わってきたような気がしていた。投手が投げたボールを打つ練習の前に、トスバッティングやティーバッティングを繰り返し繰り返し行うことで、自分のバッティングに対する形が出来上がるのと同じことだろうと思った。  

 

その後に150mのウインドスプリントとミニハードル走を行った。不要な力を抜いた滑らかな走りと、ピッチを素速く刻み脚の回転を上げる練習のようだ。初めてやった腕組みスタートからの後半走は、組んでいた腕を振り始めたとたんに、スピードがグンと上がるのが実感できて楽しめるメニューだった。これはきっと100mの後半を意識した練習だろうと思う。スタートダッシュを8本と助走付き50メートル走を5本やって午前の練習が終了した。

 

昼休みの時間になった。バックの中にタオルを入れ丹野邸に向かおうと顔を上げた時、竹部裕也と同じ中学出身の高跳びを専門にしている川相智子と、マネージャーの山口美優さんに声をかけられた。

「野田君、お弁当持ってきてないんでしょう」

山口さんが笑っていた。川相智子が自分のバックの中を覗いている。その後ろには中川健太郎を初めとする長距離グループの4人がさえない顔をして続いていた。結局、南が丘の十人と山口先輩が一か所に集まり、それぞれが持ってきた弁当を広げ始めた。グラウンドは緑色の金網フェンスで隔てられて大きな公園に面していて、そのあたりは柳や銀杏の大木が連なって日陰を作る格好の休憩場所になっていた。山口さんが何人分ものサンドイッチと缶入りの野菜ジュースを持って来てくれていた。中川健太郎は自分の弁当を開きもせずにサンドイッチを食べ始めた。山口さんは試合の時でも必ずこうやって、自分が食べる分以上の大量の弁当を持ってきてくれるのだという。

 

上野先生と青嶺高校の生徒も何人かやってきて、遠足の弁当の時間のような賑やかさになった。

「あらー、ミス山口はまたたくさん作ってきたのねー。いつもありがとうねー。」

上野先生は最初からそのつもりでなにも持ってきてないという。

「今日はうちの旦那はカップラーメンね!へへっ!いつもお世話になってますね。」

「自分の作ったものを食べてくれる人がいるって、なんか楽しいじゃないですか。」

「そう? へー、そう思えるんだぁ。」

上野先生は、何かまぶしいものでも見るようして山口さんにそう言った。

柳の葉が揺れ木漏れ日がみんなの髪の毛を明るく照らした。

「ほら、転ぶから、走っちゃダメだって……」

母親の声と子供たちの歓声とがフェンスの向こうから小さく聞こえてきた。

「イチゴ、食べませんか?」

丸いタッパーに入った小粒のイチゴを差し出してくれたのは青嶺高校の短距離グループでさっきまで一緒に走っていた千葉颯希という生徒だった。その言葉をきっかけに、広げられたレジャーシートの上にはいくつものオカズたちが並べられ、ブッフェスタイルの昼食会場のようになった。

 

大はしゃぎの山口さんを初めて見た。彼女の楽しみはこういう時間なのだろうか。自分が誰かのために食べ物を用意したり、道具のセットや練習メニューの制作やタイムの計時をしたり、そのほかにもいろいろな裏方仕事に打ち込んでいる。それに対して自分に返ってくるものは何があるのだろう。満足感? 奉仕の精神? 他人の笑顔から自分の幸せを感じているというのだろうか。

「うちの旦那からなんの種目か聞いてる?」

上野先生は僕に話しかけているようだ。

「はい?」

この人に会ったのだって今日が初めてなのに、旦那さんのことなんか知るわけがない。

「なんか、南が丘の新人十人の中で種目が決まりそうにないのは野田君だけという話だけど?」

「中学は野球部だったので、まだはっきり自分の力がつかめてないようなんです」

山口さんが答えてくれた。

「沼田先生はジャンプ系だろうって言ってました。でも、野田くんは、なんだかもっといろんなことやってみたいようです」

 

「そう、さすがミス山口!うちの旦那よりよく見てるね」

僕は食べかけのサンドイッチを落としそうになった。そうか、上野先生と沼田先生は夫婦なのだ。またしても、知らないのは僕だけなのだ。

「野球やってただけあって肩幅広いね! 身長はいくつ?」

「178くらいです」

「去年は?」

「173くらいだったと思います」

「そう、まだ伸びるね! 受け答え野球部っぽいね。いいよ!」

「ちょっと足首見せて」

「あしくび? ですか?」

ジャージの裾をめくって靴を脱ぐと、上野先生が足首の周りとかかとのあたりを触り始めた。両手で足首を回し、足の裏を指圧するように押してから「いいよ」と手を離した。

「太くていい骨してるね。いいわ! 足首細いし、ふくらはぎに良い筋肉付いてる。足底のアーチが見事に発達してる。少しО脚気味だし、バネがありそう。うちの旦那も見る目あるかもね」

 

きっと30歳代と思われる上野先生の笑顔は、周りの女子高校生たちと変わらず若々しかった。そして大きな口だった。

「サージャント測ったことある? ああ、垂直跳び」

「はい、中学の体力テストでやったときは86センチでした」

中川健太郎が珍しく大きな目で僕を見た。そして、それ以上に1番驚いた顔をしていたのは野田琢磨だ。

 

陸上部の1年生にはもう1人の野田がいた。彼は札幌市外の江別からやって来ている。僕とは違って高い学力でこの学校に入学した。それだけでなく彼は中学時代に陸上の全道大会で入賞している。種目は走り高跳びだ。山野沙希と中川健太郎とは中学の強化合宿で顔見知りだという。と同時にこの3人は中学時代の全道学力コンクールでも上位を争ったライバルであったらしい。そして、彼の家もまた江別市では名の知れた開業医であるという。

2人の野田の存在は周りにとっては煩わしい。

 

「タクマ」という呼び名はすぐに広がり、彼の方は下の名前で呼ばれるようになった。2人が一緒にいるときには「タクマ」と「ケンジ」と呼び分けることになったが、「ケンジ」は3年生にも2年生にもいる。それで、単に「野田」と呼ばれたり、「ノダ」と「ケンジ」を縮めて「ノダケン」と呼ばれることが多くなった。それは中学時代の呼ばれ方でもあった。

「タクマ」の方は「野田」と呼ばれることはなくなり「タク」と縮めて呼ばれることになった。「タク」という軽く透き通った音と「ノダケン」というゴツゴツした音がそのまま2人の持つイメージとつながることになった。

 

タクは高跳びを専門にするが、走るスピードは全くなく、百メートル走は13秒以上もかかってしまう。その代わりジャンプ力に優れ、跳びはねるような走り方をする。何よりも長身で細身な体型をしていた。中川健太郎よりも更に細く、身長は180センチを超えるのに、体重は60キロを切るくらいしかない。肩幅はノダケンの半分しかないと思えるほどだ。両足の太さに至ってはどこの筋肉であれだけのジャンプができるのか不思議に思うほどだった。中学時代には走り高跳びで180センチに迫る記録を持っている。

 

「ほー、大したもんね。高跳びやったことある?」

「体育の時間でやっただけです」

「どのくらいだった?」

「150センチくらいまでしかやりませんでしたから」

「跳び方は? 体育の時間だからベリーロール?」

「そうです」

「体力テスト受けてるんだったら、立ち幅跳びと3段跳びやってるよね?」

立ち幅跳びは、マットの上でやったので記録は正確じゃないみたいですけど、2m80㎝位でした。立ち3段跳びはやらなかったです」

タクは2人の会話を聞き逃すまいという表情で、弁当のふたさえ開けていない。

「野球部だったんだから、長い距離は走ってたよね。グランド何周とか?」

「5キロくらいはいつも練習で走ってました」

上野先生は青嶺高校の生徒が持ってきたおにぎりをほおばりながら公園の親子を見ていた。

「どこの中学だった?」

「岩内です」

「岩内ね……、小山先生のところ?」

「そうです」

「小山先生に何か言われなかった?」

「いえ、1年生の時に担任でしたが、その後は違う学年でしたし、あんまり生徒と口聞きませんから」

 

陸上の名選手だったという噂の小山先生は変わった人で有名だった。いつでも生徒を見下したようなしゃべり方をして、自分だけがにやついているような人だった。僕が中学に入学してすぐに他の小学校から来た生徒とトラブルを起こしたとき、訳も聞かずに1人で怒りまくっていた。話を聞く姿勢など示すことなく、大事な自分の時間が使われてしまったことや自分のクラスがまとまらないことのすべてを、生徒である僕らにかぶせてしまうような言い方をしていた。父は呼び出しに激怒して小山先生とぶつかり、校長室にまで押しかける始末だった。それからも何回か保護者とのトラブルがあったらしく、2年生になるときに小山先生は担任を外れ、違う学年の所属になっていた。中学校の陸上部がつぶれる原因を作ったのもこの先生だと噂されていた。

 

「そう、やっぱりね。……野球のボール投げはどのくらい? 遠投っていうの?」

「はい、遠投は得意でした。90m以上は投げてました」

「以上というと?」

「グランドでは90m以上は測れませんから」

「なるほど……」

じっと僕の顔を見る上野先生の手からおにぎりのご飯つぶがこぼれた。

「山口さん」

今度はミス山口とは言わなかった。

「この人はネルギー溢れてるようだから、いろんな種目に挑戦させたほうがいいと思うよ。陸上素人だけどさっきの走りを見てたら、ちょっとすごいかもしれない!」

さっきまでとは違う真剣な表情に見えた。

「私もそう思っていました。南が丘にはちょっといないタイプですから。」

上野先生と話すときの山口さんは、いつも以上に笑顔が輝いて見える。

「さすがミス山口。あなたは本当にすごい人だね! 絶対心理学者になれる。羨ましくなるな」

上野先生と山口さんが何を考えているのかは僕には分からないが、会話している2人の表情はすごく魅力的だった。

 

 午後の練習は技術練習が中心になった。午前中はあまり指示をしなかった上野先生が各グループごとに動作指導を始めた。

やり投げ希望してるようなこと聞いたけど?」

青嶺高校には2人のやり投げ選手がいて練習をはじめようとしているところだった。

「はい、野球やってたんで、1番合ってるかなと思って」

「君は結構走るのも伸びると思うから、向いてるかもしれないね。でも、槍だけじゃもったいないなー。もっといろんなことやってみたいと思わない?」

「いろんなことといいうと、どんなのですか?」

ちょっとドキドキしてきた。

「うん、それなんだけどね、なんかどれも伸びそうだよ君は。槍はうちの旦那に教えてもらいなさい。一応あの人の専門だから。」

「そうなんですか?一度もそんなこと言ってませんでした」

「そうだろうね、あの人は自分のことあんまり言わないから。でも、あたしが言っておくから、教えてくれるよ。」

違う学校なのに夫婦だからこんなふうに交流してるんだろうか。

「槍よりも、ちょっとハードルとか砲丸とか、今日はやってみよう! 他のは南が丘でやることにしてさ」

「ほかって、なんですか? 何をやればいいんですか?」

「あらあら、そうだねー、まだ言ってなかったもんね。あのね、君は混成競技に向いてると思うんだよね。」

「コンセイ? 競技?」

「うんそう、高校だと八種競技。一般だと十種競技ね」

「八種目やるってことですか?」

「そう、2日間で、1日四種目ずつ八種目。一般の十種競技は『デカスロン』って言うんだけどね、ヨーロッパだと『キングオブアスリート』として賞賛される競技になってるの。どんな意味かはわかるでしょう。日本じゃまだまだマイナーだし、選手層は薄いから記録もたいしたことないけど」

「2日間で八種目」

「そう、暇じゃないことだけは保証するよ」

「八種目というと、何があるんですか?」

 

 高校生用の混成競技である八種競技は、1日目に100m・砲丸投げ走り幅跳び・400mで、2日目に110mハードル・走り高跳びやり投げ・1500mを行い、それぞれの種目に設定されている得点の合計を争う競技だということだった。十種競技の場合はこれに円盤投げと棒高跳びが加わる。面白そうだった。もちろんどれもやったことのない競技ばかりだ。100mは記録会で予選落ちだったし、どのくらいの記録がいいのかさえわからなかった。

 

「全部の種目で強い人なんかいないんだよ。スプリント系に強い人、ジャンプ系に強い人、投擲系に強い人と、それぞれタイプがある。当然だね。でもその中でもね、スプリント系に強くてさ、体の大きな人が伸びるだろうね。君にぴったりみたいに思うけど」

「100m予選落ちでした」

「タイムは?」

「11秒7」

「大丈夫、立派な記録。午前中の練習見ててよくわかった。走る練習したことないでしょ。これからいくらでも伸びるよ。今は力だけで走ってるから。それも魅力。どうしてもね、力のない人は伸びない。これはもうしょうがない。自分の持ってる能力だから。あるところまでは練習で伸ばせるけど、その上は能力の差がどうしてもある。持って生まれた体や能力にはかなわないものなんだよね。君のその体は、本当に親に感謝したほうがいいよ。足首から太ももにかけての筋肉のつき方なんか、本当に羨ましいくらい。」

 

父は170センチに満たない背丈だが、祖父は175㎝の身長と厚い胸板を持っている。僕を可愛がってくれていた叔父も180㎝位の身長で肩幅の広い人だった。

 

「初めての種目ばかりだから、うまくいくはずないから、とにかく失格にならないで全種目を経験してみることが大事だからね。やるかどうかは後で決めればいいから、とにかく今日はハードルと砲丸の動きだけ覚えなさい。あとはうちの旦那と相談して決めるといい」

「分かりました」

僕には何があっているのかはわからないけれども、適正をしっかり考えてくれたことはわかった。自分のチームのためにではなく、僕のために考えてくれた。混成競技という種目が夢中になれるものかどうかはわからなかったが、それでも、1日中暇じゃなさそうなところは気に入った。あの広い競技場を存分に使って過ごせるような気がしていた。大丈夫、体力には結構自信がある。

 

「今、4台のハードルでインターバルを刻む練習してる」

上野先生の説明が始まっていた。

「この子の場合は、中学の時からハードルやってるから、もう十分リズムが身に付いてる。次の選手を見ていて」

1年生の小林未紗希がスタートした。

「1台目まで8歩で行って、抜き足を横から回して、着地した足のつま先の方向に持ってくることが大切。そうすると直線的にインターバルの3歩が走れる。ここで抜き足が着地した足の外側に行ったり、クロスして交差した位置についてしまったりすると、軸がぶれてスピードは落ちるし、3歩で踏み切れなくなってしまうんだよ。そこをよく見ていて。」

 

ピッチャーの踏み出し足が外側に開いたり、内側にクロスすると上体がついてこないのと似ていた。ピッチャーだとこれで肩や肘を傷めることが多い。腰に負担がかかりすぎることにもなる。踏み出した足に体重を載せて前に進むように投げるランニング投法というのと同じ原理のようだ。小林美咲は、3台目で踏切の方向が高くなってしまうようで、2台目を越えてからのスピードが極端に落ちてしまった。

 

「もう1度、北野が行くよ。」

最初に跳んだ3年の北野恭子さんがスタートした。右足で踏み切った時の右手のリードがしっかり取れていた。かなり遠い位置から踏み切り、ハードルを越えるとすぐ近くに着地していた。着地するのを待っているのではなく、ハードルを振り上げ足で後ろに倒すような振り下ろしの動作をしているようだ。これは、午前中に練習したスプリントドリルのひざ下の振り下ろしの動作と同じだ。ハードルを跳んでいるというより、ハードルを間にはさんで腰の位置を高くして走っているような感じだ。

 

「あの、着地する足は振り下ろす感じみたいですね」

「そう!よくわかったね。いい目してるよ。」

上野先生が喜んでくれた。僕の見方が間違いではなかったようだ。

「インターバルを3歩で行くのに、どうしても着地を遠くにして距離を稼ごうと思っちゃうんだけどね、そうすると次の足が前に出てこなくなるんだよ。それよりもかえって、着地を手前にして、抜き足を高い位置から叩きつけるように前に持ってくるとリズムが取れるの」

「難しそうですね、走ってる時そんなこと考えられるんですか?」

「慣れればね。そのために練習してる。インターバルの3歩が広く感じてるうちは速く走れない。インターバルを小さくリズミカルに刻めるようになると一流になれるよ」

もうひとりの1年生がスタートした。ハードル間を4歩で跳んでいる。

「この子はね、体が小さいしスピードがまだないから4歩でインターバル跳んでるの、毎回踏切足が変わるから器用なんだね」

4歩で跳ぶことは見ていてスピード感に欠けるが、安定したリズム感があった。

 

「やってみる?」

上野先生がからかっているような言い方をしたが、早くそう言ってくれるのを待っていた。

「女子用だから、高さも低いし、インターバルも短いけど、練習にはいいかもね」

「やってみます」

「スピードをあげないでやりなさい。詰まっちゃうから」

スタンディングからスタートして1台目、歩幅を無理して合わせてジャンプすると高くとびあがってしまった。右で着地、左右とゆっくり足を運び次の左で踏切ったが、膝を伸ばして振り上げ足を意図的に引きつけて振り下ろすことも、左足を横から回して高く引き付けることもできない。パタンと右足のすぐ近くに降りてきた左足が次へのエネルギーを吸収してしまったようで、前に進む力はがくんと落ちた、3台目は越えられなかった。男子用のハードルに比べるとかなり低い高さに設定されていても、目の前のハードルはやはり「障害」として僕の前に立ちはだかっていた。障害を越えられない恐怖のようなものを感じた。手でハードルを抑えて立ち止まった。

「難しい!」

青嶺高校の3人から笑い声が聞こえてきた。

 

 ハードルを越える動作のストレッチを教えてもらった。振り揚げ足を前に伸ばし、抜き足をまげて左手を前に出す。その状態で顔を前に向けたまま前屈させる。3人の女の子達はさすがに体が柔らかい。うまくいかない僕の背中を2人がかりで押してくれたのだが、僕の上体は硬い。

「背中の筋肉すごいよね!」

北野恭子さんが言い、2人の1年生がクックッと笑った。その後、ハードルの横に立っての抜きの練習を何度も繰り返し、あすからの練習に加えることを教えてもらい、砲丸投げに移った。

 

 高松菜々子という3年生が1人で砲丸のサークルに入っていた。青嶺高校は長距離とリレーが得意な学校で、駅伝の他400mと1600mのふたつのリレーが強く、フィールド競技の人数は少なかった。高松さんは砲丸と円盤の両方を得意としていて、去年の新人戦では砲丸投げで優勝した人だった。4キロの砲丸で12m台の記録を持っていた。その時はグライドをしてからの突き出しの練習をしていた。

「高松、2、3本投げてみて」

上野先生の言葉に頷き、高松さんがサークルに入った。後ろ向きの姿勢から右手の砲丸を頭上高々とあげ、あごの下に構えるとすぐに左足を大きく振り出して右足の蹴りで前方へ素早く移動して投げていた。砲丸はかなり高い弧を描いた。

 

「君は野球やってたから、腕を振ってボールを投げていたと思うけど、砲丸はね、直線的に腕を突き出して投げること。あごの下に構えたら、そこから胸を張るようにして目の高さまで押し上げるようにするといい。ステップは、今の高松のを真似してみるといい。高松はステップ上手だから」

「やってみます。」

「サークルの後半部分から入るんだよ。白線が引いてあるから、試合の時はね。」

あごの下に砲丸をつけてみる。冷たい鉄の感触が顎の骨に伝わった。

「あっ、ちょっと待って。高松、持ち方教えて」

高松さんがもうひとつの砲丸を持ってきて右手に乗せた。

「こうやって、中指の付け根のあたりに重心が来るように乗せて」

向かい合ってみると高松さんはかなり背が高い。上野先生が高かったのであまり目立たなかったが、170㎝以上ありそうだ。手足も長くて、バスケットボールやバレーボールの選手のようだ。青嶺高校はバスケもバレーも強豪校なのだから、きっと勧誘されたに違いない。

 

「親指と小指には力を入れないで支えるだけにして、砲丸が落ちないようにすればいい。腕が伸びきった時に手首のスナップが効くように。そう、そう、そんな感じ」

言われたように腕の動きをやってみてからサークルの後ろに行って構えに入った。ピッチャーの投球と同じように左肩が開かないようにすればいいのだろうと想像は付いた。右の膝を深くおってステップし左の肩と腕を大きく回して、顎から直線的に、最後はスナップを効かせるように放り投げた。

 

4キロの砲丸は低い放物線でライナーのように飛び出し、グラウンドの上をずいぶんと転がっていった。

「えー!」という高松さんの声と

「あらー!」という上野先生の声が重なった。走り高跳びの助走路にいた山野沙紀が砲丸を拾って持ってきた。川相智子とタクが後から続いた。

「ずいぶん転がるんだ。野田くん? 投げたの?」

「どのくらい出てる?」上野先生が高松さんに聞いた。

「14から、15m、くらい行ってますね! こんなに飛んだの初めて見ました!」

「4キロだけど、やっぱ力あるね! 今の投げ方でこれだけいってるものねえ!」

「6キロだと、どのくらいですか?」

高松さんが聞いたが、上野先生は黙ったままだった。

「右足の蹴りすごいね! やっぱり野球かな? ピッチャーだった?」

「ピッチャーもしてました。でもセンターが多かったです」

砲丸投げやるの?」

なぜか心配そうに山野紗希が言った。

「いや、沙紀ちゃん、この人砲丸だけじゃもったいないみたいだよ。明日からあなたたちで、ハイジャンプの跳び方教えてあげて」

上野先生は深刻そうな顔に見えた。山野紗希の目がいつも以上に鋭くなったように感じた。

タクはいつもの柔らかい表情のままノダケンを見つめていた。

第1部 3 沼田恭一郎

 

 陸上部の練習は、学校の雰囲気と同じで、各自が自由に振る舞っているようにしか見えない。グラウンドに集まって遊んでいる集団にしか思えなかった。チームとしてのまとまりや一体感が重視される野球部と、個人のレースを基本とする陸上との違いなのだろうか。広いグラウンドのあちこちで陸上部の先輩たちがトレーニングに励んでいるようなのだが、僕にはそれぞれが何をやっているのかわからなかった。まじめに全力でやっていることなのか、それすらもわからなかった。いや、いま目の前を3人1組で走っていった3年生達が全力で走っているとは思えない。

「手を抜くんじゃねー。」

野球部ならばそんな声が飛んできただろうと思いながら、しばらくただグラウンドを眺めていた。

 

「君の脚の筋肉は長いからジャンプ系に向いていると思うぞ」

陸上部顧問の沼田先生がそう話しかけてきたのは入部3日目のことだ。僕の走りを見たのは初めてのはずなのだが、そう言いきった。僕はやり投げでもしてみようと思って陸上部に入った。坊主頭の注目度は高く、周囲の生徒達からは坊主頭イコール野球部と思われていたのだろう。入学式から3日間、野球部の強烈な勧誘をかわし続けてきた。

槍投げをやってみようかと思っているんですが」

「槍かい? ほー、珍しいな。やったことあるの?」

「いえ、野球部でしたから」

「野球、ね」

左右に目を走らせ、沼田先生が何かを考えている顔をした。

「ポジションは?」

「ピッチャーのこともありましたが、センターが多かったです」

「背も高いし、肩幅広いしな。野球やってたのか……」

沼田先生は、なにかを思い出そうとしているようだったが、途中であきらめたような表情になった。

「うーん、まー、しばらくは短距離グループで一緒にやってみな。でも、君の脚の筋肉は長いからきっとジャンプ系に向いてるぞ……」

 

小学校3年の時、継母が弟を生んだ。家族の中心が僕から弟に移った。それからというもの、放課後と休日は少年野球に熱中することでお互いの幸せを確保してきた。体が大きく上半身の力も強かった僕はピッチャーをさせられることが多かった。

 

速い球を投げて打ち取った時の快感はあった。でもどうしてもこのポジションは好きになれなかった。4年生5年生と学年が上がるにつれて、打てない球を投げられるようになればなるほど、相手バッターや相手のベンチは、打つこと以外の小細工を弄してきた。3人連続でバント攻撃されたことがあった。インコースのボールにわざとあたりに行くように指示する監督もいた。投球モーションに入る直前にわざとタイムをかけてくるチームもあった。ランナーが出てセットポジションになると牽制のモーションにクレームをつけてくる監督もいた。

 

野球は楽しむためにやっている。この時間は僕にとって唯一の楽しめる時間なのだ。他の余計なことから逃れ、楽しい時間を過ごすためだけに野球をしていた。野球をしている何時間かは他のことはなにも考えなくてもいい。夢中になれる。楽しむための時間だった。

 

ピッチャーは嫌だと思うことが多くなった。他のポジションにしてもらおうと監督に申し出ても、簡単には認めてくれない。僕が投げると相手は打てないのだから当然なのだが……。

「肘が痛いんです」と6年生になった時、少年野球の監督に申し出た。野球肘というやつで困っている仲間は何人かいた。

 

目を丸くしてしばらく何も言えなくなった監督は「病院で見てもらえ」と小さな声で言った。病院なんかに行く必要はなかった。肘なんか痛くはなかった。言われたことを無視して、当時はもう引退して父親に社長業を譲っていた祖父から「野球肘らしい」ことを伝えてもらった。監督は、網元だった祖父の興した水産加工会社で働いていた。

 

中学に入って外野手を希望した。60人以上の部員がいるので、試合に出られる選手は限られていたが、僕は1年生の時から使ってもらうことが多かった。中学の監督もピッチャーにさせようとしていたが、肘が治らないことを理由に外野手に固執した。ピッチャーには魅力を感じていない。でも、チームの勝利のために個人の希望が後回しになるのは、団体競技の原則だというのが監督たちの話からは伝わってきた。

 

僕はただ、自分の時間が欲しかった。誰の目を気にすることもなく、自分が思ったことをそのままできる保証された時間が欲しかった。家庭の中にはそれはなかった。学校生活の中にはもちろんなく、部活動の時間だけでも自分の楽しめる時間にしたかった。

 

外野の守備位置からバッターの打ち返すボールに集中して、自分の体を反応させることに楽しさを感じるようになっていった。ピッチャーの投じる球種とコースに合わせて、打球の飛んでくるコースも予測できるようになった。ピッチャーの投じる1球1球に全神経を集中させることが楽しくなった。そしてなによりも、2塁や3塁にいる走者をバックホームでアウトにすることに1番の喜びを感じていた。本当は肘なんか痛くはなかったのだ。

 

高校では、個人の力だけで結果を出せる陸上競技に自分の時間を使おうと考えていた。陸上であっても、監督の意思で種目を決定されてしまうのであれば、野球をやめた意味がない。

 

5月の記録会は連休の中日に円山競技場で行われた。この陸上競技場は冬期間にはスケート場としても使われていたのだという。地下鉄を降りると大きな松の木が立ち並ぶ森のような公園の入り口が見える。見上げるほどの高さに立ち並ぶ樹々の間を進み、坂を登ると北海道神宮に行き着く。更に上へと進むと、札幌ドームが出来るまではプロ野球の巨人戦が行われていた円山球場へと続いている。

 

陸上競技場は野球場の隣に位置し、更にその右隣にはテニスコートが設置されていた。札幌に来てまだひと月あまりの僕は、同じ日にテニスの大会があるという武部と一緒に路面電車と地下鉄を乗り継いで行くことになった。マネージャーの山口先輩に細かく教えてもらっていたので、ほかの1年生部員と行くはずになっていたのだが、武部が強引に決めてしまったのだ。

 

僕の下宿に武部がやって来たのは、まだ薄暗ささえ感じる朝の5時をちょっと過ぎたころだった。この時間に動いているバスも電車もあるはずなく、武部の住む南区から歩いて来ることなども考えられない。父親か母親に送ってもらったに違いない。まだ、布団の中にいた僕を丹野の婆さんが困った顔をして起こしに来た。

 

丹野の婆さんは70歳をとうに過ぎている。二人の娘さんの嫁ぎ先はともに東京らしい。息子さんはアイスホッケーの選手をしていたことがあり、今は苫小牧にいるのだという。十年も前に亡くなったご主人は会社の役員をしていたらしく、この家もそれにふさわしい立派な作りをしていたし、部屋数も多かった。南が丘高校に近いために、今までも何人かの先輩達がこの家に下宿していたのだという。その中の1人は大学助教授だし、もう1人は北海道議会に籍を置いていると、何度も何度も聞かされた。そして、ご主人も南が丘高校の卒業生だった。

 

岩内で水産加工会社を興し、取引先が多くなるたびに人脈を広げていった祖父が、南が丘高校の関係者から紹介されて、僕はこの下宿に住むことになった。父親にアパートでの1人暮らしを強く主張し、父もそれで良いと思ったらしいのだが、社長業を引き継いだとはいえ、祖父の言うことには逆らえない父だった。

 

「いいですかぁ野田さん。札幌の名門高校に入学させてくださったご両親にぃ感謝するんですよぉ。きっとあなたの知らないところでぇ大変な苦労をなさっていらっしゃるのよぉ。」

丹野の婆さんの口癖だった。

「岩内のような田舎町から、わざわざ札幌のこの高校に入れるには大変な努力が必要だったんでしょう。無理したんでしょうきっと。」と、どうしてもそんな意味に聞こえてしまう。

「いやあ、岩内も結構文化レベルの高いところで、函館ラサールだとか札幌の公立とか中高一貫の私立とかずいぶん来てるんですよ。有島武郎の文学館だとか荒井記念館だとか中島みゆきが小学校までいたことがあったり、大鵬だって僕の小学校の先輩なんですよ。」なんて言ってみても、丹野の婆さんには通じないのはわかっていた。

 

札幌は北海道の東京で、「地方の町」からやってくる人はみんな、ここで一旗揚げてやろうと一念発起してやって来る田舎者たちだ、と思っているような話しぶりなのだ。そう思われたところで全くかまわないけれど、「岩内ってけっこういい町なんですよ」なんて、さらっと言うだけにとどめることにしている。どう言ってみたところで「みやこ」で生きてきた丹野の婆さんには通じるはずがない。

 

丹野の婆さんは京都の出身で、公家の血を引いているらしいという話を武部から聞いた。

武部はもうなんどもこの下宿に顔を出していて、特技の社交術、いや、得意のおしゃべりで丹野の婆さんにもすっかり気に入られていたため、こんな非常識な時間の訪問にもかかわらず、すんなりと通されて僕の部屋へとやって来たのだ。

 

「お婆ちゃんいつもすいません、こいつは身体ばっかりでかくても、ほんとにまだ子どもで、なんにも自分のことできないやつでしょう。もうほんとに、しっかりできるように強く言っておきますから。じゃあ、後でまた京都のお話聞かせてください。どーもー」

「なんなんだよおまえは、僕の親か。……んとに。こんな早くから。時計持ってないのか」

「だってお前、記念すべき初陣だぞ。人に後れを取ってはならじ。先んずれば人を制すって、この前古典の時間に習ったばっかりだろ」

「いいか、よく聞け。おまえな、ちょっと盛り上がりすぎ。緊張してるのか? ああ、中学ん時部活やってなかったんだ……、初めてか。」

運動は苦手ではないらしいが、どうもこいつが運動している姿は想像しにくかった。

 

「早すぎたか?」

「競技開始は9時。6時に起きて7時に出発すれば8時前には着くだろう。それからゆっくり時間をかけてアップして、徐々に気持ちを高めていけばいいんだ。初めっから入れ込んでたらさ、ゲートに入る前に落馬してしまう競走馬みたいになっちまう。テニス部で時間の打ち合わせとか待ち合わせとかしてないのか?」

「してたみたいだけど、山口さんみたいな素敵なマネージャーいないしさ、僕はお前と行きたかったんだ。」

「なんでだよ、違う部活なのに、気持ち悪いだろ。」

「いいじゃんか。お前といると安心感があるんだよ。いいから、早く起きろ。」

「もう、今日はだめかもなー」

「お前、朝は弱いんだな。」

「うっせーよ」

「わかった、わかった。じゃあ、支度ができるまで丹野の婆さんと仲良くしてくるから」

身軽な動きで部屋から出て行く武部の背中を見ながら、祖父の言葉をまた思いだしていた。

 

「……僕も、お前の父親も、ここの商業高校しか出てないから、お前は我が家の自慢だ。でもよ、頭のいい優秀な学校に入ったことが大事なんじゃない。そこに通ってくる選ばれた生徒たちと一緒に生活できることが1番大事で、1番価値のあることなんだぞ。高校の3年間は、お前には大事な大事な時間になるはずだ。後から振り返ってみたらな、きっとそう思うはずだ。何が大事かを言葉にするのは難しいけどな。良い大学に入るかどうかなんてことはどうでもいい。『本物』を見ることだ。いい仲間を作れ。その時その時で『今』をどうするかを全力で考えて、それに向かって全力を出せ。中途半端はだめだ。それも後で絶対に後悔するからな。そしてな、本物の良い仲間が必要だ。今まで、お前の周りにはいい仲間がいなかったから……。」

 

中学の3年間、祖父にはずいぶんと助けてもらった。小学校の6年間を過ごした仲間たちとは違い、他の小学校からきている同級生たちには、僕はずいぶんと異質な生徒だったのかもしれない。学校で何か問題があるたびに父親は担任とぶつかるばかりで、相手を罵倒し、学校の対応にクレームをつけてきた。それは明らかに父親自身の手抜きや、見栄から来ることが多かったのを僕は知っていたので、父が学校に来ることを極端に嫌った。何度も祖父に学校への対応を頼むことになり、祖父はいつも僕をかばって長い時間かけて学校とも相手の家庭とも丁寧に対応してくれた。

 

「……金のことなんかどうにでもしてやる。いいか忘れんなよ。お前は、ここを出て行くわけじゃない。もちろん追い出されていくわけでもない。お前の生き方を決めるために札幌に行くんだ。お前は野田の家の長男だ。けども、この会社を継ぐ必要なんかねえぞ。僕の代で、昔網元だったのを活かすのに水産加工の会社組織にした。その時から、野田の家は、家の格式や力じゃなくって、この町の1つの組織になったんだ。お前の父親はそのことをまだ分かってないようだ……。お前は家を継ぐなんてことは考えなくてもいい。おまえが僕の孫だということはどこにいたって変わらないからな。いいか……。」

武部は祖父の言う「本物のいい仲間」なのだろうか。

 

やっとのことで長い冬から解放された北の街を祝福してくれているような1日だった。道路を挟んで向かいにある円山動物園は、開園前の時間なのに家族連れの車が次々とやって来ていた。桜はまだ5分咲きにも満たない。それでも、北海道神宮の境内付近にはこれから花見客が大勢繰り出してくるに違いない。野球場では社会人野球の大会が行われ、テニスコート陸上競技場は高校生の大会で、それぞれに独特のスタイルをした選手達が自分の活躍の場所を目指して歩いていた。

 

札幌市と近郊の高校生が参加する春期記録会は、学校対抗の種目は行われず、シーズン初めの大会として、個人の記録を確かめるために行われている。出場は1人2種目までと限定されているが、学校毎の出場人数制限がないため100m競争は男子だけで15組も行われる。残念ながらやり投げは実施種目には入っていなかった。100m走に出ることになった僕は、120人もの選手と競うことになった。もっとも、100mの正式な競技に出ることなど初めてで、自分の力だってどんなものなのかは知らない。それでもひそかに、自分の足の速さには自信があった。野球をやっていた6年間で盗塁を刺されたことは1度しかなかった。それも、明らかに審判の立ち位置が悪いために見誤った結果でしかないと思っていた。自分のタイミングでスタートできれば絶対に成功するとの自信を持っていた。

 

女子のレースが半分を終え、去年の新人戦の優勝者だという北翔高校の2年生が12秒4のタイムを出したという。気温の低さやシーズン初めという身体の出来具合から、良いタイムが出にくいこの時期の12秒4は、悪くない記録なのだという。追い風がかなり後押ししているらしい。南が丘の1年生から1人だけ出場した山野紗希は12秒9で走り、2年生や3年生よりも良いタイムを出した。

 

 並んでスタートを待っていた2年生の坪内航平が自慢するようにいった。

「あー、やっぱあの兄弟はさー、DNAレベルで運動神経発達してんだよなー。」

垂らした前髪の奥から、小さいけれどもちょっとだけつり上がった鋭い目が覗いていた。

「えっ、兄弟って?」

「あー?! なに言ってんのおまえ、3年の山野憲輔さんだろ」

「兄弟なんすか?」

「おまえ、バカか。ったく。顔見たらそっくりだろう! きっと性格もな!」

「そう言われると、切れ長の鋭い目が、似てますね。」

「お前、うわさ通り、ホンットに周りのこと分かってないな。鈍いっていうかなんて言うか、足は速えくせによ。」

「すんません。田舎もんなんで。」

「なんでも田舎もんでごまかすなって。お前って、本当に、真面目なのか鈍いのか」

 

小柄な身体を利して足の回転で勝負する坪内航平は、野球でいうとセカンドやショートに多いタイプだ。こういうタイプは、バッティングも器用で「うまい」野球をする選手が多かった。そして、人1倍負けん気が強いという共通点も持っていた。だから常にちょっとした細かなことにもトコトンこだわってしまうことが多い。

得意のスタートダッシュと同様、坪内航平はしゃべりもやたらに速い。そのため僕は時々聞き取れないことがあって、それを理由にまたバカにされるのだ。坪内航平にとって、僕は絶好の「口撃」の対象だったようだ。  

 

野球部にいた頃、先輩が後輩をけなすのはいつものことだった。そんなことは当たり前で、僕はたいして気にもしなかったが、敬遠する部員たちは少なくなかった。実際、陸上部の1年生の中で坪内さんの評判は悪かった。露骨にそういう反応を示す1年生も少なからずいた。僕は去年までの先輩と似た雰囲気を持っている彼のことをそんなに嫌いではなかった。というよりも、かえって親近感のようなものを感じていた。それにしても、僕はもう少し周りのことを知る努力をしなければならないのかもしれない。誰かに教わるまで何も知らないままだったことがこれまでもたくさんあったのだ。

 

男子の部が始まり、3組目に山野憲輔さんが走り、11秒6の2着でゴールした。大柄なわりには小さな走りをしていた。上下動の少ない走りは外野手向きかもしれない。9組目の坪内航平さんは、得意のスタートで11秒5のタイムを出した。僕の1組前の11組では3年生の大迫さんが噂通り強く、スタート後、身体が起き上がってからの加速で他を大きく引き離し、余裕を持ってゴールに飛びこんだ。タイムは11秒2。今までの組では1番の記録だった。

 

ようやく僕の番になった。緊張感はさほど感じなかった。100mは望んでいた種目ではないのだ。チームの勝利を背負っているわけでもなく、2アウト満塁でもないのだから、自分だけのために走ればいいのだ。3レーンにスタブロをセットし、1度自分のタイミングでスタートしてみる。10メートルほどのダッシュの後スタート地点に戻った。ゴムの走路がずいぶんと柔らかく感じた。同じようにして戻ってきた7人と並び、スターターの合図を待った。

 

スターティングブロックの後ろに立つと、みんなはそれぞれいろいろなことをやっている。左隣の2レーンの選手はしきりに体をゆすっている。右隣の4レーンでは、その場でジャンプを繰り返している。目をつぶって静かに深呼吸を繰りかえす選手もいた。5レーンの大柄で筋肉質の選手は、スタートのリズムを作るためか腕を小刻みに振っている。そうやって独自の方法で集中力を高めているのだろう。視線の先にはゴール地点の白いテープ……。いや……テープはなかった。

 

1年に1回だけの運動会で、白い紙テープを最初に切りたくて頑張っていた小学校の頃。負けたくない、という気持は先頭でゴールのテープを切りたいという気持でもあった。だが、今、このスタート地点から見える目標のゴール地点にはなんにもない。ただ走路の両側に2本の白い杭が立っているだけだ。スタート前の選手たちがゴールを見据える緊張の場面のはずが、なんだかちょっと違った。目の奥や背中のあたりの力が抜けていくような気がした。陸上選手として記念すべき初の100mは、スタートを前にした今になって、ゴールにはテープなんかないという、そんな当たり前なことを初めて知ることになった。頭の中に空白ができてしまったような気がした。左右の選手たちは、みな緊張感たっぷりの顔をしている。

 

「オンニュアーマークス!」

赤い帽子をかぶったスターターが叫んだ。初めて聞く言葉だった。運動会ふうに言うと「位置について」ということらしい。

「シャアッ!」とそれに合わせて大きな声が外側のレーンから聞こえた。

「シアース!」と左隣の選手が気合いを入れた。

両足をすっと開いたスターターが、白く四角い台の上に真っ直ぐ立つ姿がかっこ良かった。でも次は何という言葉なのだろう。急に胸のあたりが忙しくなってきた。

 

右膝をついて、左足を前側のスターティングブロックにセットし、両手は白線の手前に親指と人差し指で支え、肩幅より少し広く平行に置いた。腰を小さく左右に振ってスターティングブロックに両足を更に押しつけた。1度顔を上げてゴール地点を見た。

「遠いな」

自分のレーンを示す2本の白線が遠近法の存在をはっきり主張して、9レーンの全てをまとめるようにゴール地点に集結していた。頭を下げ、息を整えた。そして軽くはき出した。「よーい!」じゃない次の言葉を待った。隣にある野球場から金属バットの打球音が聞こえてきた。耳に神経が集中しているのを感じた。

 

「セット!」

腰を高く上げると、指と肩とに体重がかかった。

「ドン!」という音ではない。「パン!」とも「バン!」とも「バシ!」とも聞こえる音を聞き飛び出した。引き上げられた右膝で1歩目が遠くに着地し、その右足にしっかり身体をのせて左足を出す。右、左、と進めるうちに脚にかかる力が軽くなってきた。スピードに乗ってきた。肘を曲げ、拳を握らないように意識を小指に集め、視線を遠くにおいてなにもないゴールに向かった。

 

無風状態のはずなのに、顔にぶつかる風の強さがほっぺたを揺すった。結構寒い。腕を大きく前後に振り、ひざは意識して高く上げ地面を上からたたきつけるようにしてゴムの走路を踏みつけた。タータントラックというゴム製の走路は、野球場の赤土とは違って跳ね返りが強い。つま先が埋まったり、滑って前足が抜けたりすることもない。

 

ゴールが近いことを示す横線にさしかかった時、右隣の選手が前にいることに気づいた。

今まで以上に腕を強く大きく振ろうとした。とたんに肩が揺れ、腕の力が首筋を硬くした。練習の時に沼田先生にいわれていたようにリズムよく走ろうとしていたのが急に崩れ、上半身の前傾が大きくなり、前につんのめりそうになった。打席でフルスイングした後に1塁に駆け出すときのように、全身の力を使ってなんとかこらえた。テープのないゴール付近を通過した時、1レーンの選手がわずかに自分の前にいるのが見えた。

 

3番目でのフィニッシュだった。第1コーナーの入り口まで走り、右に折れて場外への通路に向かった。

「負けた」

思わず空を仰ぐと、5月の陽射しがちょっとだけ目を痛めつけてくれた。なにも考えられないうちに終わってしまった。斜面に段差をつけて下へと続く隣のテニスコートから女の子達の歓声が聞こえてきた。武部はどうしているだろう。あいつも今日が人生初のテニスの試合なのだ。

 

 記録は11秒7だった。初めて正式な記録を手にしたものの、この1本の100mのために僕はここで1日を過ごしている。準決勝、決勝と進んでいかない限り、これで1日が終わってしまう。野球の試合は中学であれば7回まで行われ、時間にすれば2時間程の真剣勝負ができる。今日は11秒で終わってしまった。この短い時間の中で自分の楽しみだとか満足だとか、いったいどこでどんな瞬間に感じるものなのだろうか。自分の力だけが勝負の決め手になる個人競技を望んでいた僕の考えは、本当は自分自身の適性とは違っていたのだろうか。

 

センターの位置から、投球のコースに合わせて守備位置を変え、スイングの強さと打球音で飛球の位置を判断してスタートをきる。そんな野球をしていたときの方が、はるかに中身の濃い、極める中身のある時間だったのではなかったのか。相手投手の配給を読み、自分のポイントまで引きつけたボールをフルスイングできる野球の方が、遥かに満足感を得られる競技だったのではないのか。自分のいない競技場を他人が走っている姿を見ていても何も感じるものはなかった。

 

テントへ戻って、1人きりの昼食を摂った。野球部時代には1人で昼食を摂るなんてことは考えられないことだったが、それぞれが自分の出場種目の時間に合わせて食事をとるのが陸上競技の「あたりまえ」なのだ。午後からは大迫勇太先輩の100m決勝を応援するために全員でメインスタンドに移動した。風がすこし強くなり、ゴール地点に向かって左後方からの追い風に変わった。2時現在はプラス3.2メートル。

 

スターターのピストルから白煙が上がった。山口さんのストップウォッチが動き出した。大迫さんがとびだした。身体が起き上がりトップスピードに乗るまでは、とてもスムーズに動けていた。中間疾走でスムーズな動きを維持できれば記録に結びつくらしい。でも、何だか少し力みが見える。肩の辺りが盛り上がっている。膝下の動きが小さくなったように感じた時、隣のレーンにいた北翔高校の山崎昇が前に出た。大きな動きで股が高く上がっている。身体の大きさを活かしたダイナミックな走りで後半1気にスピードに乗ってきた。腕の振りが大きく、股の太さが印象的だ。この人はきっと200mも強いのだろう。

 

最前列にいた僕たちの目の前を走り抜けていった山崎昇に、大迫さんは勝てなかった。後半の動きが対照的だった。追い風参照記録だったが、山崎昇は10秒9のタイムを出した。大迫さんは11秒1。追い風は2.6m。ほんのちょっとのオーバーで公認記録にはならなかった。けれども10秒台の記録に山崎昇は手をたたいて喜んだ。大迫さんが札幌で負けるのは珍しいことなのだという。彼は第1コーナー付近に立ち止まり、天を仰ぐという言葉がまさにぴったりな動作で、係員に促されるまでしばらくの間腰に手をあてていた。長い前髪に風が容赦なく吹き付けていた。

 

連休明けの学校は賑やかだった。5月病なんていう言い古されたものとは縁遠いこの学級の生徒たちは、相変わらず雑多でにぎやかで脈絡のない会話に夢中だ。中でも特に、強風に舞い上げられたような会話の花びらをあちこちに散らしまくっていたのは、身振り手振りをふんだんに交えた武部の「テニス初体験記」であるかもしれない。

 

「僕のバックハンドは高校生離れしているって言われたよ。」

「それって、高校生のレベルに達してないってことじゃないの?」

ピアノが得意だと自己紹介していた小笠原美桜が言った。なんとかいうピアノコンクールで全国2位になったのだという。その演奏を聴く機会はまだないが、とげとげしく激しい演奏になるような気がした。

「ボレーを決めるための微妙な角度を会得したよ。」

「ダブルスの前衛でもサーブやレシーブがあるんでしょう?」

そう言った福島美幸は小さな身体ながらバレーボール部のセッターとして期待されている。

 

「武部君とテニスボールの組み合わせがどうしても結びつかないよねー!」

合唱部でソプラノパートだという星野玲那が、その大きな目から今にも涙が落ちてきそうなくらいに笑っている。武部に無理矢理連れて行かれた合唱部のホールコンサートでは、女の子がほとんどの中に武部を入れて7人ほどの男子部員が、あごを振り、目を大きく見開きながらバスのパートに苦戦していた。星野玲那たちソプラノパートの響きはなかなかで、笑顔が印象的な歌い方だった。彼女は小さな身体に似合わず、どこまでも突き抜けるような澄んだ声を響かせていた。そして、その場で、仕組まれていたように合唱部への入部を勧められた。僕はもちろん強い口調で断った。歌には自信がない。いくら兼部が認められていようともそんな時間があるわけがなかった。

 

「きっとさ、武部君って、ボール追うより口の方が多く動いてたんでしょ。」

誰もが武部のイメージとスポーツとをマッチさせられないでいるらしい。

 

武部はそんな冷やかしのすべてに丁寧に答えていた。長い前髪を風に吹かれながら、俯いている大迫勇也の姿が武部の笑顔に重なった。自分自身の走っている姿は浮かんでこなかった。たった11秒で終わってしまった初めての陸上の試合。それなりに初めてづくしの経験はしてきたが、こんなことを続けていけるのだろうか。何を目的に、どんな楽しみのために、毎日の練習に向かえばいいのだろうか。練習することそのものが楽しみであるのか。そういう人もいるのだろうし、そうなれるのならそれでもいい。だが、楽しみの存在場所はわからないまんまだった。

 

武部のような社交性は持ち合わせていない。ましてや、1回戦負けの試合結果を何回も、何人にも繰り返し話せるほどの忍耐力もない。むしろ、大迫勇太先輩の天を仰いでいた姿にあこがれた。たった1度だけでも、自分が敗れたということに大きな思い入れのある生活をしてきたに違いない。

――勝っても負けても、そのことに全身で喜びを表し、悔しさをにじませられる、そんななにか夢中になれるものを見つけたい。他人のことなどどうでも良くなるくらい、自分のことだけに入り込める何かを手に入れたい。家族も友人も世の中の出来事さえ、何も気にすることなく夢中になれる何かが欲しかった。

 

「ケンジー」という間延びした呼び方をするのは武部に決まっていた。

「足速いなー、お前!」

テニスの話ではないらしい。

「予選落ちだって」

「いやいやいやー、1年生だもん、あたりまえでしょ!」

「学年なんか関係ねーよ。おんなじ距離走ってんだから。」

「あらっ、負けたのが悔しいってか? なんかー、珍しくやる気なさそうだぞー!」

「たった11秒のために1日無駄に使うのが我慢できない。全然面白くなかった。お前とは逆だ」

「そうだよー、僕は1回戦負けだけどさー、やたら面白かった! 初めてのことばっかりで、本当はルールすら知らなくて、どっち側からサーブすればいいのかもわかんなかったんだ。いちいち教えられながらやったんだけどさ、面白かったよー!」

 

こいつはなんで僕の前ではテニスの武勇伝を語ろうとしないんだろう。

「ケンジ―……お前さ、なんで野球やんなかったの?」

「野球もたいした面白くなかったから」

「だってお前さー、少年野球からずっとやってたんだろう?」

「だから、もう飽きたんだ」

「僕さ、この前テニスの会場で、時田ってやつと仲良くなったんだよね。北龍高校の」

「時田、……時田一也か?」

「そう、一也。一緒に野球やってたって?」

「んで?」

「最後の試合のこと言ってた」

「……」

「お前がさ、最後に投げたって……」

 

 去年、中学最後の試合は全道大会出場をかけた地区の決勝戦だった。互いに2点ずつとって7回を終わった。延長戦は促進ルールが適用され、無死満塁から攻撃が開始される。8回表、先攻の我が校がスクイズと外野フライで2点を取った。その裏「2点差があるからスクイズはない」との監督の読みで、スクイズ対策の前進守備を取らない作戦の裏をかかれ、1塁側にセーフティースクイズを決められた。しかも、それが内野安打になり満塁のまま1点差に迫られた。次の打者には前進守備にしたところ、バントしたはずの打球がハーフライナーとなって2塁手の頭を越え同点になった。1点取られると終わりの無死満塁となった。

 

もうあとはない。1人で投げ続けてきたピッチャーは、もう気持ちも体力も限界なことが誰の目にも明らかだった。もう1人のピッチャーは2年生で安定した投球をするが、球威がない。この場面では使えない。監督の大谷先生はセンターの僕をマウンドに上げた。中学に入って何試合か練習試合で登板したことがあるだけで、ピッチャーとしての練習はしていなかった。それでもセンターからのバックホームで肩の強さは全員の知るところだった。今までも何度もピッチャーを薦められていた。無死満塁。1点取られればそれで終わってしまうこの場面では、力で押さえてしまう以外ない状況だった。

 

 8球の練習投球で感覚を呼び戻し、集中力を高めた。緊張するとか堅くなるとか、そんなことを見せることの少なかった僕は、この時もポーカーフェイスで通した。キャッチャーの森田がマウンドにやってきた。

「カーブはいらないぞ」

笑顔だったが、目は笑ってなかった。

「どうせ投げれないって」

「全部真ん中来い!」

もともとコントロールには自信がない。真ん中ねらっても適当に散らばっていってくれる。4球を出さないことが1番大事だ。スクイズされたらしょうがない。

 

慣れないセットポジションから3塁走者を見て大きく左足を上げた。ミットだけに集中して投げ込んだ。センターからのバックホームと同じように左足にしっかり体重をかけて全身の力をこめた。真ん中高めのストライクになった。歓声が上がった。2球目にスクイズにきた。足を上げた時にスタートをきるのが分かったがかまわずに投げ込んだ。少しアウトコースにそれた高めの球をファウルにしてくれた。3球目もスクイズもやってきた。うまいぐあいにインコースに外れた速球に押されボールはバックネットへのファールとなった。3振でワンアウト。次のバッターは初球からスクイズをやってきた。これもストライクゾーンから外れた速球で1塁ファールフライになった。ツーアウト満塁。味方ベンチから大きな歓声が上がった。

 

そして3人目。この1番バッターは相手にとってはいやな「うまい」選手だった。初球、外側に外れてワンボール。次の球が勝負と感じた。スクイズはないので大きく足を上げて全力で腕を振った。バックネットにファールとなった。タイミングは合っていた。3球目更に力を込めて腕を振った。インコースに外れた高めの球に対してバッターが左肘を突き出すようにしてボールがあたった。いや、ボールにあたりにきた。明らかな死球ねらいの動作だった。主審がタイムをかけた。バッターは死球のアピールをしている。

 

「あたった、あたった!」と相手ベンチも大きな声で騒いでいる。審判が協議のために集まった。1塁の塁審からは左肘を突き出してわざとあたりに来たことがはっきり見えている。「ボール!」という判定を主審が下し。バッターに注意が与えられ、ツーボールワンストライクから試合が再開された。その時相手の監督が主審に抗議にやってきた。判定への抗議は認められていないのだが、相手校の監督は判定が変わらないことをわかってあえてやっている。ピッチャーや相手守備陣へプレッシャーをかけているのだ。小学校の頃を思い出した。これがいやでピッチャーはやりたくなかったのだ。

 

もうボールにしたくない。4球でもサヨナラになってしまう。結果を考えずに真ん中に最高の球を投げてやる。渾身の投球と自分でも感覚があった。外角の低めに最高の球が行った。見送った、と思った瞬間に遅れてバットスウィングが始まり、「バスッ!」という音と共に森田のミットからボールがこぼれた。バットがミットをたたいた音だった。投球は低めのストライク。ミットにボールが収まってから「ミットを」打ちにいった。主審が再びタイムをかけ、塁審を呼び集めた。長い協議の結果「インターフェアー」の判定が下った。打撃妨害。バッターが打つのをキャッチャーがじゃましたという判断だった。バッターは明らかにミットを狙ったスウィングをした。

 

ベンチから勢いよく飛びだした大谷先生が激しく主審に抗議した。塁審たちが間に分け入った。

「なんだよあれー」

「きったねーぞー」

グラウンドを囲った金網の柵の外からも観客のヤジが飛ぶ。本部席にいた他校の監督たちも顔をしかめ、小声で話している。いったん下ってしまった判定は覆さないのがルールだ。3塁ランナーがホームを踏んで試合は終了した。ミットを打ちにいった相手校のバッターは両手をたたきながら1塁ベースを踏んだ。

 

「ヨッシャー!」という声が僕の耳になんとも悲しく響いた。

彼は何に対して喜びの声を上げたのだろう。自分の上手な演技にだろうか。審判をうまくだませたということになのだろうか。勝ったことで喜びの声を上げ、ベンチを飛びだした相手チームはみんながハイタッチを繰り返す。勝ったことを喜んでいるのはわかる。僕は自分たちが負けたという事実が悲しいわけじゃなく、こんな勝ち方を喜ぶ人がいることに悲しくなった。相手校のベンチでは監督や部長先生も大喜びだった。これで全道大会に出場できるのだ。僕はこのまま球場からいなくなってしまいたかった。森田は泣いていた。去年の7月のことだった。

 

「時田一也はその時ベンチにいて、大谷先生が相手監督をののしるのを聞いたと言っていた」

武部のしゃべり方がさっきまでの「テニス体験記」で盛り上がっていた時とは正反対だった。

「大谷先生は試合のあとに、相手の監督に『コノバカやろー!』って詰め寄ったんだ。そのことで連盟からかなり指導されたらしい」

「時田一也は、『フェアーじゃないのは向こうだろう?』って言ってた。フェアーの意味は違うけどね」

その意味の違いは僕には分からなかった。スペルが違うからと武部は言ったが、意味的には一緒じゃないかと思っていた。

 

「それが、野球をやめた理由なんだろう?」

「いや、楽しくなかっただけ」

「陸上は? 」

「たった、11秒しか陸上してない」

「それって、負けたのが悔しいってことだろう」

「違う!」

「じゃあ、なんだ!」

「人が走るのばっかり見てても面白くないから」

「100mじゃないのをやりたいんだろ?」

「それもあるけど、何種類もの競技がばらばらに始まって、いつの間にか終わって、なんだかかってに進んでる感じがして、自分がいてもいなくても関係なくて、ただ走って、跳んで、投げて……。それ見ながらテントで1人で昼飯食って……、どうやって楽しめばいいんだ?」

 

「ケンジー、それって……」

また武部の口調が変わった。

「……それって、やっぱり負けて悔しかった。そういうことだよ! お前、逃げてんだろ!」

「なにがよ!」

武部が少しひるんだ表情をした。まずかった。声の調子が、気持ちを隠しきれなかった。

「時田はさー、お前が札幌に出てきた理由も知ってるようだった」

「なんだってよ」

こういうしゃべり方が中学の時に敬遠される理由になっていた

「家族から離れたかったんでないかって」

 

ここに来てまで家のことを話題にしたくない。そのために札幌に来たのだ。

「時田なんてさ……あんまり仲良かったわけじゃないから、そんなこと知ってるわけない」

「ケンジ、僕はお前の家がどうのこうの、ってのとは関係なくお前が気になるんだ。なんだかこう、お前は凄い力持ってるはずなんだけど、最後の最後にすっと引いてしまって、いつの間にか自分を自分で蚊帳の外に置いてしまっているような、そんな気がしてる」

「そんな難しい言い方、良くわかんねえよ。お前ほど頭良くねえから!」

「いやー、ごまかすなって、お前は本当は頭もいいし、運動能力もずば抜けてる。それは間違いない。そんなことはもう俺はわかってる。けど、なんでだかさ、お前は自分を隠してしまってるだろ。」

 

「中学の担任も、本気で私立高校進めてくれたよ。南が丘なんか受かるはずないって。頭いいわけないじゃんか!」

「違うね。それは、勉強した時間が長いかどうかってこと。札幌にいてこの学校目指してきた奴らはさ、みんな、塾だとか家庭教師だとか、夏季講習だとか、勉強にかけた時間が違ってるからさ。頭の善し悪しじゃなくて、ここに入る目的意識の問題だ。お前にはそれがなかっただろう?」

「合格なんか、するはずないとしか思ってない」

「でもよ、お前の能力は、僕たち以上かもしれない。おまえはさ、自分にもっと自信持てば! 誰の目も気にする必要なんてないんじゃないの?」

 

「僕は、お前とは違う!田舎もんだからな」

「そう、臆病だよな!」

「おまえらのような都会育ちじゃないからな。しょうがねえだろう」

「いやいやいやいや、それは違うよ。野田君……」

また、武部の変なしゃべりがはじまった。

 

「……100m1回負けただけだろ。まだ、走り方もなんにも知らない素人なんだろう。僕とおんなじ。お前の野球だって最初からうまかったわけじゃないだろ。できないことばっかりだったはずだろ。100mだってきっと走り方ってのがあんのさ。でも、知らないから、結果でないから、面白くないとかなんとか言ってんじゃないの? 僕はさ、テニス初めてだけど、負けたけど、1ゲームも取れなかったけどさ、面白かったよ。相棒にはいっぱい迷惑かけだみたいだけど、これからこうしようって思ったよ。陸上だって100m以外にもいろんな競技があって、お前のやりたいっていう、やり投げ以外にだって夢中になれる何かがあるんじゃないの。それを知らないうちになんだかんだ言っても早すぎるだろ……、そうじゃないかね。ええ、野田君」

 

「なんなんだ! 変なしゃべりしやがって、この」

「お前は今までスポーツに関してはエリートだったと思うよ。それが、1から、いや、ゼロから始めなきゃなんないから戸惑ってるんだろ? プライド許さないんだろ?」

「そんなんじゃねーよ」

「いいじゃんか、誰もお前の昔のことなんか知らないんだから。お前は、田舎からきた南が丘の生徒で、学ランで登校してくる変わったやつなんだから。そうやって自分の高校生活が始まったばっかりなんだぞ。そのキャラに自分から染まりきって行けばいいじゃんか。僕はそういうお前だから面白いと思うし、他の仲間だってお前を気にしてくれるんじゃないの? 逃げるのはなし!」

「逃げてるわけじゃねえ!」

「そーおー、僕には逃げてるようにしか見えないね。いいかケンジ、ここは南が丘高校なんだぞ。お前の昔のこと知ってる奴なんか誰もいないんだし、逆によ、お前がどんなやつかみんな興味持ってるんだぞ。逃げる必要なんてないだろうよ。」

「……」

「時田一也はおまえのこと『ノダケン』だとも言ってた。意味はわかんないけど、カッコいい呼び方だよな。」

 

祖父の名は野田謙三、父は野田健悟、そして曾祖父は野田謙輔という。明治初期に網元だった「野田家」の家名はいつの頃からか「野田の謙輔」「ノダノケン」「ノダケン」という通称と共に広がっていったという。祖父の頃には既ににしん漁華やかりし頃の網元制度はなくなりつつあったが、野田家はその家名と人脈を残していた。地主と小作農にも似た網元と網子の関係は精神的なつながりとして残っていて、野田家に対する畏敬の念は地域の名士としての部分を強くして残された。祭や興行に際してのとりまとめや選挙運動での挨拶回りが「野田家」を抜きに始められることはなかった。網元から水産加工場経営となったあとも「ノダケン」という呼び方は、野田謙三、野田健悟、野田賢治と受け継がれてきた。中学校では、その「ノダケン」としての立場が僕の上に重たくのしかかっていたかもしれない。

 武部は、祖父の言った「本物」なのかもしれない。

南風の頃に 第一部 2 竹部裕也

 

「明日、8時集合はいいよね。あなた、朝は強い? 目覚ましは持ってる?」

山口美優がバインダーにはさんだプリントを見ながら言った。1本にまとめた髪が左肩の下で少しだけ揺れている。

「朝は大丈夫です。下宿の婆さんはやたら早く起きるから」

「場所、分かんないんだったよね。」

角張ったあかね色のメガネフレームの奥から、真っ直ぐな瞳が僕を捉えている。

「いや、あのー、武部と一緒に行くことになったので」

「武部……、あー、テニス部も明日試合だったねー。武部君って、よく練習に顔出すおしゃべりな子だよね。テニス部だったの? おんなじ中学?」

「いや、僕は岩内から来たんで知ってる人はいないんです。なんか、何故かそういうことになって」

 

イワナイ? 北海道あんまり詳しくないんだ」

「あの、泊原発って知ってますか? 積丹半島の西側の?」

「あ、あっちの方なの。そんなに遠くないよね。」

「札幌からちょうど100㎞ぐらいです。車だと2時間くらい」

「港町? 魚とか、ウニとかアワビとか取れる?」

「はい。寿司屋でうまい店ありますよ。友達のオヤジがやってるんです」

「へー、いいね。行ってみたい。海の町っていいよね!」

「ちっちゃい町ですよ」

「兄貴、車買ったばっかりだから行きたがるな、きっと。」

 

兄貴という古くさい言い方が、かえって新鮮に聞こえた。そして、兄妹でドライブに行くという映画の1場面のような姿を僕はどうしても想像できなかった。

 

「明日は第2コーナーの芝生席にテント張ることになるから、そのあたりに来ればいいよ。」

「第2コーナーって、ゴールの向かいのあたり?」

「そーだ、陸上は初めてだったんだー。でも、体育の授業とかで知ってるでしょ。リレーの第2走者のあたり。わかる?」

彼女は出来の悪い生徒に丹念に教え込んでくれる先生のようだ。

「大丈夫です。」

「本当? じゃあ、帰りに持って行くもの分担するから。まだわからないことがあったらその時必ず聞いてよ。練習の後、器具室でね。今日の練習は軽く終わるから、5時には帰れるよ。」

 

「ミーティングとかやらないんですか?」

「そういうのしないの、ここは。エントリーシートに要項がついていたでしょ。しっかり読んどいて。あと、なんか心配なことない?」

「いや-、大丈夫だと思います。わざわざありがとうございました。」

「新人には優しくすることにしてるから。最初だけ。次の試合からはもうないから。しっかり今のうちに覚えて。じゃね。……ああ、学生服、かっこいいよ。」

 

バインダーを左手で抱え、膝から下を振り出すような歩き方で山口美優が出て行った。新人に対する優しさと思えばいいのか、マネージャーとしての義務を果たしただけなのか。昼休みの忙しい時間に教室まで連絡に来てくれたことに、僕は少しの戸惑いを感じていた。  

何かを隠し持っているような表情の人たちを今までたくさん見てきた。その人たちはみんな視線が大きく動いていた。そのたんびに作り笑いをしたり、わざと難しい顔をする。でも山口美憂は全く違った。こちらの目の奥をのぞき込むような、いや、僕の頭の中に入り込んで会話しているような、そんな話し方をした。

 

「あんたはどんな世界で生きてきたのさ」

僕は彼女の後ろ姿に無言でそう問いかけていた。

山口さんと入れ替わりに教室の前のドアから武部が顔を出した。小さな頷きを繰り返し、ニヤニヤしながら近づいて来る。

 

「おい。おいおい、デートに誘われた?」

武部は丸めて持っていた雑誌のようなもので脇腹を突っついてきた。

「なに言ってんの!」

「3年のバイリンギャル山口さん、いいよなー理知的でさ。」

「リチテキ?」

「いいよなー陸上部。素敵だなー。なんか、いかにも頭良さそうって感じだなー。ああいうシンメトリーを保った顔ってなかなかいないんだって。本当の美形だってことだなー」

「シンメトリーとか理知的とか、お前、かっこいい言葉知ってんな」

「なんか僕の名前が聞こえたような気がしたんだけど?」

「お前のこと覚えてたよ。おしゃべりな男の子だってよ!」

「あちゃー、やっぱ、山口さんもマッチョが好きなんだなー」

「違うって!」

 

「カナダで長い間暮らしてるとさー、僕みたいな日本的イケメンは好みじゃなくなるのかなー?」

「カナダ? ……なんでお前、そんなことばっかり詳しいのさ。」

「僕、今、南ヶ丘コレクションを収集中。山口さんは当然第1番目に入れてある。」

「いつそんなことしてんの。よくそんな時間あるよな。」

「もてる男というのはねー、こういう手間を省かないものなんだよ。覚えておきたまえ、野田君」

人差し指で眼鏡を上げるような仕草をしながら言った。

「だれの真似よ。変なやつ」

 

こんな気取った言い方も、武部だと笑っていられる。そして、なぜだかこいつは本当に女の子にもてる。武部とは入学式の翌日以来の付き合いだ。その日は、学級での自己紹介があり、詰襟の学生服で登校してきた僕は、まだ短く刈上げたばかりの坊主頭だった。

 

「武部裕也でーす。札幌の藻南中学から来ました。この学校には3人ほど同級生がいますが中でも1番頭悪いですけどよく気がつく男です、と中学の担任は言ってたので、たぶんそうなんだと思います。1番の目標は楽しい高校生活を送ることです。皆さん、よろしくお願いしまーす。」

わざとらしいそのチャライ言い方からこいつの余裕が感じられた。笑いとともに、パラパラと拍手が起こった。こんな場面でも緊張を感じないやつなのだろうか。

 

「あっそっ、気が利くの。良いことだな、そのうちしっかり役に立ってもらおうか。それからな、頭悪いって言っても、札幌にはこの学校の生徒にそんなこと思っている人は誰一人いないから、外に出たら言わない方が良いぞ。『か・り・に・』ホントウだとしても、謙遜じゃなくイヤミにとられるからな。」

担任の大森先生がニヤツキながら、小さな体に似合わないバリトンを響せた。だが、誰もその皮肉に気付かずに黙ったままだった。

「で、君は武部美由起の弟なんだ?」

「……そう、ですけど」

「うん、似てるっちゃー似てるけど、頭の方はどうかな」

 

ちょっとだけ教室を見回したが、誰も乗ってこなかったことに気落ちしたのか、しょうがないなというふうにペンを持った右手で僕の座っているあたりを指して言った。

「じゃ、次どうぞ……」

「はいっ!」

前にいた何人かの生徒が振り向いた。期待や驚きとともに明らかに嫌な表情を作った生徒もいた。

ドスの利いた声だと、中学の頃は恐れられていた。体の大きさだけでなく、表情を変えることなく誰もが言いにくいことをズバリと言うことが多かったからかもしれない。その上、ほかの男の子よりかなり低い声をしていた。

 

「ほー、いい声してるな。リキんでるか?」

「はい?」

「Take it easy!」

「えっ……」

「まあ、気楽にやんな!」

「えー、うん、はい。僕は野田賢治といいます。ケンジは宮沢賢治のケンジです。積丹半島の付け根にある港町の岩内町から来ました。今話題の泊原発はすぐ近くにあります。ずっと田舎で育ちましたので、100%の田舎ものです。この高校には知っている人は誰もいません。中学時代は野球部でしたが、陸上部に入りたいと思っています。勉強はできが悪いし、札幌のことも何も知りませんので、どうぞ、よろしく、お願いします。」

 

自己紹介があるだろうことを考え、朝から何度も頭の中で繰り返してきたセリフだった。練りに練って作り上げた内容だった。息継ぎをするのも忘れるぐらい早口で話してしまった。唇の裏側が前歯にひっついてしまったようだ。深々と礼をしながら、舌で唇を歯茎から離してから顔を上げると、大森先生がにこやかな顔で言った。右目が少し斜視気味のようだ。

 

「うん、君は良いヤツなんだな、きっと。挨拶が素晴らしく謙虚で丁寧だ。頑張って考えてきたんだろう。でもな、野田君。札幌が都会だなんて思ってちゃいけない。札幌も立派な田舎ものの集まりなんだ。東京だってそうだ。だから田舎ものが都会に吸収されてしまうよりも、田舎ものが都会を作っているんだと思った方がいい。日本という国はそうやってできてきたんだ。つまり、田舎ものには田舎ものの良いところがあって、それが都会に新しい空気を流し込んで、いい具合に活性化させてるようなものだ。だから、いっぱい田舎ものらしく活躍してくれ。」

よくわからない言い方だが、気にするなってことなのだろう。

 

「それによ、今や泊原発は全国民が知っている有名な場所だから、岩内もそんなに田舎とは言えないんじゃねえか。」

前の席で武部が拍手した。みんながそれに合わせた。右手を伸ばして手のひらを下にゆらすように拍手を制して、大森先生が続けた。

「でな、ちょっと質問したいんだけど?」

「はい?」

口の中がまた乾いてきた。声がいつもより高くなってしまった。

「入学式の時からみんな気になってたと思うんでよ、代表して僕が聞くんだけど……、その学生服はどうしたの?」

やっとこの話題になった。ほっとした。

 

「いや、自分の、中学の時のです」

「いやいや、そうじゃなくて。私服の学校なのにさ、どうして学生服着てるの、という意味さ。まあ、私服の学校と言うより、服装の自由化ということだから学生服も自由な服装の1つではあるけどよ。みんな不思議がってるんでな」

「ああー、昨日初めて私服なんだと分かりました……」

「ええー!」という周りの声、吹き出してしまいそうな生徒も何人かいて、少し教室内がざわついた。緊張感が一気に薄れていった。

「入試の時にはみんな制服着てました。それで……服が、無いんです。あのー、ジャージと学生服しか持って来て無くて、だから、当分は……」

呆れたように隣同士で話す声と、にやついた男達でさらに雰囲気の軽くなった教室を見回した大森先生が「家の人はそのことで何も……」と言いかけ、突然、何かを思い出したように少し間を置いて、続けて言った。

 

「そっか、そっか。でもよ、カッコ良いぞ、その方が。しばらく学生服見てないしよ、良いんじゃないかそれで通せば。他のヤツよりスキッと見えるぞ。アタマだってさっぱりしてるし! 目立つしな!」

 

24年ぶりの0.9倍という倍率割れのおかげで入学が決まってから、2着の学生服を父親に買わせた。南が丘に入りたいなどと思ったこともなく、今まで何度となく繰り返されてきた父親の見栄のために、不合格確実なのをわかって受けたのだ。中学の担任も受かるはずはないと思っていたが、父親がどんな考えをしているのかをよく知っていて、滑り止めの私立高校の方を熱心に調べておいてくれた。自分自身もそのつもりで、その高校の近くにアパートを探していたくらいだった。誰も知る者のない札幌で一人暮らしをすることは中学校3年間の1番の望みだった。父親も十分承知で、そうすることが家族の幸せのためには1番の方法だと考えていた。

 

父は合格の知らせがあってからは、知り合い中に「息子の快挙」を触れ回って上機嫌だった。僕に対して、にこやかな顔を何日も続けている父を見ることは今までなかった。そして、これからもないにちがいない。

僕の5歳の誕生日を待たずに出て行ったしまった母親には、別段何の思いも感じていなかった。年の離れた弟と妹、そして継母との生活が中心になった「父の家」にとって、僕は浮いた存在だった。継母は優しく気さくな人で、弟たちと自分を区別することなどなかった。それでも父親の方には別れた母との大きな傷跡を思い出させる存在になっていたらしく、僕にはそれがよくわかった。言葉には出さなくても、いや言葉には出さないからこそそれがよくわかった。敷地のつながった祖父の家で過ごすことが多くなり、祖父も自分の「息子」によりも、「孫」である僕に自分の人生観を伝えようとすることが多くなった。

 

札幌に出てくることが、自分自身と父親の中にある「母であり妻であった人」の存在を消し去る唯一の方法だと思っていた。誰も知らない札幌だからこそ、今までの自分とは違う自分でいられる。あえて目立ってしまう学生服で武装することが、違った自分を生きるための出発点になってくれるだろうと考えていた。

 

「中学で着てたにしてはずいぶんきれいになってるな。3年間それで通せば。有名になれるぞ!」

「はい! そうします!」

小さな笑いが教室のあちこちで起こった。からかわれていることは分かっていた。分かっていたから、それに乗ってしまうことでかえって気楽になるチャンスをもらった気がしていた。

「素直だね、お前! イイヤツだけど、あんまり人の言葉を信じすぎないことも大事だぞ!まあ、そのうち分かるだろうけど」

ちょっとだけ伸びている無精ひげを左の手のひらでなでるようにしながら大森先生はそう言って満足そうな顔をしている。

 

僕には、この人のほうが素直なような気がしていた。そのうちと言わず、いつまでもそのままでいて欲しかった。

「じゃ、大変長らくお待たせしました。次に行くよ」

大森先生の口調が和らいだが誰もそれに乗ってくれなかった。

前の席にいた武部が振り向いて言った。

「お前、カッコ良いわ!」

彼は笑っていなかった。

 

南風の頃に

 そこにあるはずのものがなぜだか見つからない。毎日毎日通っている道を通り、いつものようにこの角を曲がる。曲がればすぐそこにあるはずのものが、なぜだかない。

 

 見えてくるはずの自分の家が、……見えないのだ。何年も何年も、毎日毎日通っている道なんだから、そんなはずはない。何度も何度も同じ道を通って、繰り返し繰り返しやってみる。でも、どうしても見つからない。ああ、そういえばオレは引っ越したんだったと気づき、新しい家の方へと向かってみるのだが、そこにもなぜかたどり着かない。周りはもう暗くなり、人通りも途絶えた街並みだけが自分を取り囲んでいる。

 

 そこでもう、途方に暮れてしまう。おれは一体どこへ帰れば良いんだろう。今いるここから、どうやって自分の家まで行けば良いんだ……。自分の心臓がなんだか得体の知れない冷たいものにつかまれているように感じる頃に、いつも同じように場面が変わってしまう。

 

 そんな夢を何度も何度も見た。そして最後には、言いようのない不安感に耐えきれなくて目を覚ましてしまう。目が覚めてしまうと、そこからはいつもと同じ現実が始まり、それはそれで楽しくないわけではなかった。この何年もの間に、決まってこんな同じ夢ばかりを見る。それは春が始まり、みんなが新しい生活にウキウキした様子で歩き始める頃が多かった。

 

 今日もそうだった。いつものように自分の家が見つからずに途方に暮れている間に……、朝が始まっていた。

 

 

第一部 1.丹野さん

 春の光あふれる朝が始まっていると、始発の路面電車が教えてくれた。停留所からわずかなところにある丹野邸には、朝と夜の静かな時間には路面電車の停車音が聞こえてくる。エアーを噴射するブレーキ音が部屋の中までやって来るのだ。今朝のエアーは幾分長めだった。続いて聞こえて来た畳をわずかにこするような音は、下宿先の丹野の婆さんが僕と2人だけの朝食の準備を終えて、仏壇に火を灯しに行ったことを伝えている。和服しか着ない丹野の婆さんはスリッパを履かない。

 

「着物には足袋を履くのが日本人の古くからの習慣ですぅ。スリッパなどというんはなぁ、西洋の習慣ですぅ。畳には合うものでぇありません。」

 

 丹野のばあさんは、毎日洗濯したての新しい足袋を履き、狂言師のような身のこなしで家事仕事をこなす。僕との2人分の朝食なんて簡単にできてしまうようだ。味噌汁も焼き魚も卵焼きも毎日新しく作る。漬物だってもちろん自分が漬けたものだ。高校に入りたての僕と70歳を越したであろう丹野の婆さんと、食べ物の好みがなぜかあっている。高校生向けのメニューを工夫してくれているわけでなく、祖母の作った料理で育った田舎者の僕にとって、丹野のばあさんがつくる料理はどれも食べ慣れたものに近かった。6時15分から25分の間には必ず仏壇に向かう習慣も、祖父や祖母との生活に慣れていた僕にはかえって安心できることだった。

 

 祖父が勝手に決めてしまったこの下宿は、意外にも僕には快適な場所だった。甘やかされるとどこまでも甘えてしまうのが自分の弱さだと分かっていた。そのかわり厳しさに対しては、誰よりも我慢も順応もできる自信があった。というよりも、自分の弱さを諌めてくれる人が必要な自立できない幼さがあるのだと自分でも分かっていた。

 

 6時45分と決めた朝食時間に少しでも遅れると、丹野さんはなかなか怖い婆さんになる。

「顔を洗ってぇ、服を着替えてぇ、しゃきっとした顔でぇなぁ、食卓に向かいなさい。それが食事を作ってくれた人に対する礼儀ぃ、というものですよぉ。いいですかぁ、時間というものはぁ、1度ルーズにしてしまうとなぁ、どこまでもぉいい加減になってしまうものですよぉ。」

丹野のばあさんが時間にルーズになるなんてことは考えられなかった。

 

「人っていうのはなあ、いいかケンジ。毎日毎日の習慣をな、飽きることなく、さぼることなく、誠実に積み重ねることでな、心も体も強くなるもんだ。日々の務めを全うし、毎日毎日繰り返される時間を大切にするってえことだ。そしてな、同じようによぉ、人を大事にするんだ。それだからこそ、その人は信用される人間になっていくんだぁ。そうやって人の価値ってえものは、決まるもんだぞ。」

 

 田舎にいたときにしょっちゅう家にやって来ては、酔いつぶれてしまった安德院の住職のこんな言葉よりも、丹野さんの方がずっと信用できそうな気がした。しかも、僕が生まれた海の町とは違う、なんともなめらかな日本語を話す彼女に対しては、どんな言い訳もしてはいけないように感じて「はい」と従ってしまうしかなかった。

 

「お前はなんも知らない田舎者なんだから、丹野さんに教わった通りにするんだぞ。そうでないと、札幌みたいなおっきな街ではな、大事なとこで必ず失敗するし、恥をかくことになるもんだ。いいか、このことはちゃんと覚えとけ。お前が大人になるための訓練なんだからな。お前は、賢い奴だから、もうわかってると思うけどよ……。しっかり……、頑張んだぞ」

 

 札幌にやってくるまで父親代わりになんでもやってくれていた祖父が、いつもどこからか僕に語りかけているような気がする。最初の頃それは、田舎から離れてやっと手に入れた自由な生活を押しつぶしてしまう重荷のようにも感じられた。それでも確かに丹野さんの言葉には真実があるような気がしていた。

 

「ケンジ。いいか、南が丘ってのは札幌で1番の進学校だ。国立大学とか医学部とか難しい大学を目指す生徒ばっかしが集まってる。そいつらぁはよ、小学生ん時から塾に通ったり、家庭教師つけたりして勉強に勉強を重ねてきた。そういうやつらだ。自分で望んでいたやつも、親に押しつけられたやつも、家を継がなければならない重荷を背負っているやつもいるべ。きっとな。南ヶ丘ってなぁよ、北海道ではな、1番難しい高校だ。して、卒業したら高い学力と名前を武器にしてな、世の中で活躍する人間になっていくんだ。北海道のトップにいる連中の多くはよ、ここから生まれてきてる。そんな学校だ。」

 

「じいちゃん、オレなんかまぐれで入ったんだから……」

「んなことはどうだって良い。まぐれで入ったってぇ、なんで入ったってぇよ、おまえは南が丘の生徒の1人になったんだから、こんなすげえことはねえ。なんしたって、できねーごとやわがんねーことばっかりだろっさ。けどもよ、恥ずかしがったり、知ったふりなんかするんでない。ちゃんと教えてもらえる人が必ずいるんだ。先生でも、友達でも先輩でもよ、何かを教えてもらえる人はいっぱいいる。そんなとこは滅多にないんだぁ。おまえはよ、これ以上ねー良いチャンスをもらったんだぁ。」

祖父の遺言なのだと思った。祖父は最後にこう言った。

 

「『人間至る処青山有り』いいか、どこに行ったってお前はちゃんと活躍できる。お前の本当の力を発揮してみるんだ。いいな。何をやったって、お前は立派にできる。そう信じてやるんだぞ!」

 

 祖父が自分の父親から聞かされてきた言葉だという。世の中は広く、死んで骨を埋める場所ぐらいどこにでもあるのだから、大きな望みを成し遂げるためにならどこにでも行って、大いに学び活躍するべきである、ということらしい。そんな立派な餞別の言葉をもらっても、自分は祖父や曾祖父のような大きな存在にはなれないと思っていた。でも、それに反論するわけにはいかなくなった。そのあとすぐに祖父は病室のベッドから出られない体になってしまったのだ。そして、そんな祖父の言葉を抱えて僕は札幌にやってきた。

 

 札幌に来て以来、下宿先の丹野さんにはたくさんのことを教えてもらった。いや、教えられた。僕はその京言葉だと思われる話し方を聞くたびに、たった一度だけ行った家族旅行のことを思い出していた。それは、小学生の頃に祖父と祖母に連れて行ってもらった京都への旅だった。